都会の生活に嫌気がさして、田園地帯に移り住む人たちが大正期にはけっこういた。ここでいう郊外田園地帯とは、現在の東京23区内の外周区だったり、あるいはさらに外側の「東京駅まで60分以内」の地域だったりするのだが、新乃手Click!のさらに外側、都市化の波がすぐに押し寄せてきそうにもない、板橋区や練馬区、杉並区、世田谷区といったエリアのことを指している。
 東京の市街地まで通勤するのに、多大な不便さを覚悟しなければならないにもかかわらず、このブームには都市生活の「不健康さ」も大きく影響を与えていたようだ。都市部では当時、結核やインフルエンザ(お染風Click!やスペイン風邪など)の罹患率が非常に高かった。大正期としては、命取りになりかねない疾病の流行は、いまでは想像もつかないほど怖れられていただろう。また、関東大震災Click!による罹災の記憶も生々しかったにちがいない。それらの恐怖から少しでも逃れようと、自分の住む地域にそれほど執着しなかった人々は、こぞって田園地帯へと転居していった。
 都市部から逃れて田園暮らしを推奨する、当時の象徴的な文章を見つけた。1925年(大正14)に出版された、『主婦之友』2月号から引用してみよう。
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 悪くいへば都会から追放されたのでありますが、善くいへば都会を見限つたのであります。私共は都会に働いてゐながら、都会に生活することができないのであります。比較的強健な体を田舎から持ち出して、万事に注意しながら働いてゐるにも拘らず、年々健康が衰へてゆくのが目だつて来ます。高い生活費を払ひながら、その得るところは病気と衰弱と恐怖観念のほか何にもないといふことになります。殊にそれが子供に一層著るしく表れて来ます。都会生活を三代も続けると、その家は滅亡するといひますが、実際そんな気がします。若しそんなことになつては大変、一家は勿論、社会も国家も潰れてしまひます。  (同誌「二大田園都市の新計画」より)
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 都会生活を3代つづけると「滅亡する」なんて、わたしはかつて一度も聞いたことがないけれど、この伝でいけば大江戸(おえど)の街もうちの家系も、とうに「滅亡」していなければならない。やはり、当時は死病だったさまざまな疾病や、記憶に新しい関東大震災の恐怖がことさら大きかったのだろう。病気はともかく、高層のビルやマンションが林立し、ガソリンを満載したクルマやタンクローリーが行き交う現在のほうが、大震災の恐怖は大正期をはるかに凌駕している。
 この記事で紹介されているのは、前年あたりから開発がはじまっていた、大船田園都市(株)による神奈川県の「新鎌倉(大船田園都市)」と、武蔵野鉄道線の先にある箱根土地(株)により開発された「大泉学園都市」の2ヶ所だ。記事は、もちろんディベロッパーとのタイアップ臭(広告臭)がするので、ことさら都市生活をネガティブに表現しているのだろう。
 現在、大泉学園のほうは東側半分の開発が中止されてしまったにもかかわらず、西側半分のみにかろうじて当時の面影を残しているけれど、大船駅東口に造成された「新鎌倉」は、人気がほとんど出なかったせいか駅前の一部が開発されただけで、名称ともども途中で“消滅”してしまった。松竹蒲田の大谷竹次郎が、羽田空港を離着陸する飛行機の騒音で制作が困難となった映画撮影所を、大船駅の近くへ移転するのを機会に、ついでに周囲を米国ユニバーサル映画社のように「田園都市」として開発しようともくろんだらしい。いまでは、大船駅前に国内最大クラスの田園都市計画があったことなど、地元に住む多くの人々の間でさえすっかり忘れ去られている。
 
 
 大泉学園のほうは、相変わらず箱根土地お得意の開発手法が目につく。武蔵野鉄道線に「東大泉」駅(のちに「大泉学園」駅に改称)を造り、それを鉄道会社へ寄付するのは、中央線の国分寺-立川間の国立駅や、東海道線の国府津とまったく同じだ。
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 東京池袋駅から武蔵野電鉄に乗り替へて、約二十分も武蔵野を西に駛走すると東大泉停車場に着きます。新に開設した駅で新装を凝らした建物は、箱根土地株式会社の寄贈にかかるものであります。駅から自動車に便乗して約六分間開発中の大道路を北に進むと広漠たる大泉学園都市の事務所に着きます。七十万坪の大地域は亭々たる松林に包まれて、僅かに南方の一部のみが畑地として開拓されてゐたのであります。 (同上)
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 東大泉では、箱根土地が3年前からスタートしていた目白文化村Click!の経験やノウハウが活かされ、より暮らしやすい住宅街の造成が追求されている。山手線に近い目白文化村は、すでに明治末から宅地化の波に洗われていたため、思いどおりに土地を買収することが不可能だった。だから、住宅街としてのまとまりからいえば、どこか中途半端な開発しかできなかったようだ。そのウップンを晴らすかのように、箱根土地は下落合から移転した本社を置く国立と、70万坪(実質は約50万坪か?)の広大な敷地を買収した東大泉とで、大規模な田園都市計画をぶちあげている。
 
 でも皮肉なことに、やはり都心からはかなり遠く不人気が祟ったものか、開発から20年以上すぎた戦後まで、「四十間通り」の西側区画はなんとか家々が埋まりつつあるものの、メインストリート東側の開発は遅々として進まなかった。しかも、東側エリアの開発は途中で断念されてしまい、「四十間通り」はふつうの四~五間通りほどの道幅で終わってしまう。
 目白文化村の2匹めのドジョウは、残念ながら東大泉にはいなかったようだ。未整備のままの東側エリアに、ようやく家々が建てられはじめるのは、戦後もかなりたってからのことだ。

■写真上:映画に描かれた戦時中の田園都市生活で、溝口健二『武蔵野夫人』(1951年・昭和26)より。下落合ではバッケだが、小金井~国分寺はハケと呼ばれる崖線上の住宅地。
■写真中上:左は、1925年(大正14)に造成中の大船田園都市。右は、同上の映画より。
■写真中下:上は、各田園都市の計画図面。下左は、1946年(昭和21)現在の大船田園都市。駅の周辺部に空襲を受けているのがわかる。下右は、1947年(昭和22)の大泉学園都市。箱根土地は街づくりとともに、商科大学または師範学校を誘致しようとしていたがともに失敗している。
■写真下:左は、完成したばかりの東大泉駅。右は、大船田園都市に建てられたモデルハウス。