ナカムラさんが、吉行あぐりご本人へ問い合わせたところ、古い話なのですでに憶えておられないとのことらしい。確かに、18~19歳ごろのほんの一時期のことなのだろうから、戦争を挟んであまりに多くの出来事が重なってしまった今日、すでに記憶の中から脱落してしまっているのだろう。中野時代=美容師の修行時代という印象のほうが、ことさら強烈なのかもしれない。
 大正後期の落合地域には、ダダイズムやアナーキズム、リベタリアンなどを標榜する芸術家たちがあちこちに住んでいた。大正10年前後には、辻潤(実妹である津田光造・恒夫婦が住んでいた関係からか上落合503番地へ居住)をはじめ、あぐりに首ったけの尾形亀之助(上落合742番地)、村山知義(上落合186番地)、川路柳虹(上落合581番地)、林房雄(上落合215番地)、萩原恭次郎(下落合1379番地)、小山勝清(下落合2194番地)などが、バー「あざみ」へときどき、あるいは頻繁に顔を見せていたのではないかと思われる。
 少し横道へそれるけれど、ダダイスト辻潤は妹夫妻の住居である上落合503番地界隈に住んでいたようだが、この住所にはのちに壺井繁治・壺井栄Click!夫妻が暮らすことになる。また、太平洋戦争が始まる前後から、辻潤は友人の桑原国治(上落合1丁目27番地)が経営していた、妙正寺川と西武電鉄をはさみ佐々木久二邸Click!隣接の落合プールの南にあったアパート「静怡寮」(上落合1丁目308番地)で暮らし、そこで1944年(昭和19)11月24日に死亡している。
 遺体は桑原の妻が発見しているので、誰にも看取られない孤独死だった。簡単な葬儀のあと、戦争も末期に近いのでクルマの手配がつかず、遺体は薪材とともにリアカーに積まれて落合火葬場へと運ばれた。ちなみに、辻潤の火葬からさかのぼること21年前、落合火葬場では最初の妻であり憲兵隊に虐殺された、最愛の伊藤野枝Click!が大杉栄とともに灰になっている。

 さて、バー「あざみ」Click!は上落合のどこにあったのだろうか? 先に登場した、辻潤の2番目の妻である小島キヨ(清)の日記には、バー「あざみ」について次のように記載されている。こちらも、ナカムラさんからお教えいただいた倉橋健一『辻潤への愛―小島キヨの生涯―』からの又引きで引用してみよう。なお、カッコ内の註は引用者が入れている。
  ●
 (大正十四年)六月廿四日
 ひるすぎに潤公(辻潤)と一緒に小山さん(小山勝清)の処へ行く、ルス、それから荻(ママ)原さん(萩原恭次郎)の処で酒を御馳走になって、みんなで村山知義 川路柳虹をオソッタがみんなルス/あざみでのんで蒲田行 百番にちょっとよる
  ●
 これによると、最初は下落合2194番地の小山勝清を訪ねたが留守、同1379番地の萩原恭次郎宅で酒肴を「御馳走」になったあと、萩原も引き連れて3人で上落合186番地の村山知義の三角アトリエと、同581番地の川路柳虹宅へ押しかけたけれどともに「ルス」で、そのあと吉行あぐりのバー「あざみ」で飲んだあと、蒲田へと足を伸ばしている。
 つまり、バー「あざみ」は感触として上落合1丁目の南側、東中野駅へと向かう途中の早稲田通りに面した北側(上落合側)か、あるいは少し上落合の中へ入りこんだあたりの、いずれかの道筋が所在地として不自然にならずに想定できる。ただし、上落合の南北に走る道路は、1927年(昭和2)にスタートする西武電気鉄道(現・西武新宿線)の客車運行と、補助45号線(聖母坂)の造成に影響され、昭和初期には大きく再開発されているので、大正期に商店が並んでいた多少にぎやかな道筋と、昭和期に発展した商店街とは微妙に異なっている。このあたり、大正時代の地図類と、1933年(昭和8)ごろに作成された「商工地図」とを比較すると明らかだ。
 

 吉行あぐりは、あざみの花が好きだった。鬼あざみを観賞しに、わざわざ富士の裾野まで出かけている。御殿場にあった「宮様」の別荘へ誘われたついでに、銀色の枯れあざみを探しにいく印象的なシーンだ。彼女の自叙伝『梅桃が実るとき』から引用してみよう。
  ●
 富士の裾野には、大きな富士あざみと呼ばれる鬼あざみがたくさんあって、枯れると一面銀色に輝いてまるで別世界のようになると聞いていましたから、それが見られればいいなと思っていたのですが、枯れるのは九月とか。/夏は、生きている富士あざみしか見られないということでした。それもみごとな紫色の大きな花だということでしたが、その日はあいにくのどしゃぶり。ほとんど見ることはできませんでした。
  ●
 バー「あざみ」は、最初はもともと存在した店舗を吉行エイスケが名前もろとも“居抜き”で譲り受け、それを妻のあぐりに任せていたのではないかとも考えた。でも、「あざみ」という店名は、吉行あぐり自身が名づけた気配が濃厚に漂うのだ。

■写真上:上落合を南北に走る通り。写真①は、西武電鉄が客車運行を開始し補助45号線(聖母坂)ができた昭和初期から賑わいはじめている通り。写真②は、東中野駅から上落合へと入る大正時代の主要道路。写真③は、昭和10年代に拡幅されて商店街が形成された通り。
■写真中:1925年(大正14)6月24日(水)の曇天下、辻潤と小島キヨが散歩した下落合/上落合飲み歩きルートと、バー「あざみ」常連客たちの住まい。「あざみ」は、上落合1丁目の東中野寄り(南側)あたりか? 地図は、同時代の1925年(大正14)に作成された「豊多摩郡落合町」市街図。
■写真下:上左は、上落合742番地の尾形亀之助宅跡で、いまは大半が落合第五小学校の敷地内となっている。上右は、美容院開業後の吉行あぐり。下は、バー「あざみ」に集ったらしい顔ぶれ。