妙正寺川の源流をたどり、湧水池である妙正寺池の界隈を歩いたことは以前にご紹介Click!した。1852年(嘉永5)ごろに作成された大江戸(おえど)の郊外、朱引き・墨引きの内外を描く「御府内場末往還其外沿革図書」を参照して妙正寺川沿いをたどっていくと、以前から面白いことに気づいていた。下落合村から長崎村にかけての地勢と、下沼袋村から江古田村にかけての地勢がどこか似ており、“聖域”のポイントまでが相似しているのだ。
 きっかけは、妙正寺川(神田上水助水)がまるで半島のように大きく湾曲して流れている中心点に、沼袋氷川明神が奉られていることに気づいたからだ。この独特なかたちには、下落合のごく近くでも見憶えがあった。いまは暗渠となってしまったけれど、谷端川Click!(千川分水)が半島のように湾曲した、その中心に長崎氷川明神(長崎神社)Click!の社(やしろ)が鎮座するフォルムとそっくりだったからだ。なんとなく既視感がもたらすカンのようなものに引きずられて、周囲の絵図を仔細に観察していくと、次々と面白いことがわかってきた。
 まず、西武新宿線の沼袋駅に近い、妙正寺川沿いの沼袋氷川明神は、古来よりスサノオ1柱を奉る社で、よく似た地勢の長崎氷川明神のクシナダヒメ1柱と、まるでセットのように照応している。そして、この「セット」現象は下沼袋村の北側に隣接する、江古田村の江古田氷川明神についても顕著だ。江古田氷川明神の北側には、妙正寺川の支流である江古田川が流れ、北側に段丘斜面を形成している。そして、江古田氷川明神に近接して、南西側に「丸山」という地名が存在しているのだ。周辺には、下落合氷川明神の界隈で見かける「大原」とか「本村」の地名もあるが、これはより一般名称に近いので、ことに地形を表現したと思われる「丸山」に注目してみたい。
 
 
 すると、下落合氷川明神のある南斜面を、まるっきり180度ひっくり返したかたちが、江古田氷川明神の姿なのに気づく。下落合氷川明神の南には神田川(神田上水)が流れ、すぐ北側は目白崖線の斜面がつづく。江戸期に絵図へ採取された「丸山」の地名は、下落合氷川明神の東側に見てとれる。明治以降は、「丸山」は字(あざな)として、下落合氷川明神の北東部広域に拡大されているようだが、江戸期の絵図が地域を局限してしまった・・・という可能性も考えられるので、ピンポイント的な地名として限定することは慎重にならなければならない。
 すなわち、北に江古田川、南西部に「丸山」の地名を抱く江古田氷川明神と、南に神田川、北東部に「丸山」地名のある下落合氷川明神は、上下がまるっきり逆さまの相似形というわけなのだ。しかも、江古田氷川明神の主柱は、昔からスサノオ1柱であり、180度のコントラストを描く下落合氷川明神は、古来よりクシナダヒメ1柱を奉ると、ここでも奉神が照応している。どうやら、高田氷川明神男体宮Click!と下落合氷川明神との「一対」だけではなさそうなのだ。
 
 
 「丸山」Click!の地名が残る、武蔵野台地の西端にあたる芝や、野川沿いの国分寺崖線には、規模の大きな前方後円墳が確認されていることを、鳥居龍蔵Click!の調査とともに以前からここでご紹介している。下落合の「丸山」も、「百八塚」の円墳とともに前方後円墳が存在したのでは?・・・という想定は、シリーズ化Click!してこれまで何度か書いてきた。この伝でいくと、下沼袋から江古田にかけても、古墳時代の遺構の臭いがプンプンするのだ。
 鳥居龍蔵の、関東大震災焼け跡調査にならい、敗戦直後の空襲跡もなまなましい同地区を上空から眺めると、沼袋氷川明神および江古田氷川明神ともに、古墳のような形状をしているのが見てとれる。実際に歩いてみると、両社とも本殿が墳丘部(削られた後円部)に設けられているような印象で、参道の階段部には明らかに方形に築かれた土塁の形跡が見てとれる。特に、沼袋氷川明神は斜面の勾配を活かした、かなり大規模な築土跡のように見える。また、両社ともまったく同じ方角を向いているのも、たいへん気になるポイントだ。参道鳥居が南南西、本殿の所在つまり参拝する方角が北北東で、厳密に測量でもされたように両社の向きはピタリと一致している。
 
 
 江古田氷川明神の西南にあたる、絵図に採取された「丸山」地名のあたりを、焼け跡の空中写真で観察すると、ちょうど江戸期に記入された地名の横に、大きなサークル状をした森があったことがわかって面白い。濃い樹木が繁っていたせいか、戦災でも炎をかぶてはいないようだ。現在では中野区歴史民俗資料館のある、ちょうど西側にあたるエリアだ。
 上空から円形に見える森をめざして過日、実際に周辺を歩いてみたが、北側が新青梅街道で削られてしまい、1947年(昭和22)の空中写真に見えるような風情は、ほとんど残っていなかった。

■写真上:沼袋氷川明神社の拝殿。妙正寺川の段丘斜面へ、ほぼ南北に築かれている。
■写真中上:上は、ともに嘉永年間に制作された「御府内場末往還其外沿革図書」。PC-AP『江戸・東京重ね地図』より引用。下左は沼袋氷川明神社で、下右は長崎神社(長崎氷川明神社)。
■写真中下:上は、同様の絵図を引用。下左は江古田氷川明神社、下右は下落合氷川明神社。
■写真下:上は、1947年(昭和22)に撮影された敗戦直後の空中写真。下左は、江古田の丸山地名が残るエリアの上空。下右は、水量が少ない湧水池近くを流れる妙正寺川。