目白崖線(バッケ)から出土した古墳刀を、重ね(刀身平肉の厚み)の残り具合いから大丈夫と考え、日本刀の研師(とぎし)に依頼して研磨してもらったことは、以前こちらでもご紹介Click!した。古墳刀の地鉄(刀身表面)が見えれば、目白(鋼の旧称)の質や、鍛錬の具体的な技法が探れるのではないかと考えたからだ。窓開け(刀身の一部を研ぐこと)ではなく、できるだけ広範囲に研いでもらい、その現れた地肌の様子をもとに、中井駅近くには古代の鍛冶場遺跡Click!も眠る、神田川(平川=ピラ川=崖川)の流域における古墳刀の鍛冶技術について考えてみよう。
 実は、古墳刀を錆びたままにしておくメリットもある。錆は金属を腐食し朽ちはてさせる一方で、一定の錆び方を長期間にわたり持続させることは、金属の強度を上げ、腐食を抑制し性質を安定させる働きをもっている。その好例が、日本刀の茎(なかご)=柄の内部における錆付け技法をはじめ、あらかじめ錆をよんで金属器を長持ちさせるという、独特な耐久性向上のためのテクニックだ。だが、古墳刀(日本刀全般もまったく同様だが)を錆身のままにしておくことは、体配(刀姿)は観察できるものの、刀自体の性質については、実はなにもわからない。茎の形状はわかるものの、そのかたちによって刀鍛冶の素性や製造地域が推定できるようになる“お約束”は、古墳期からずっと時代がくだった平安末期以降のことだ。この時期以降の刀であれば、いくら錆身であっても体配や茎型から作刀地域や地肌、刃文などを研がずにある程度は推定することができる。でも、それ以前に造られた錆身作品の、体配や茎をいくら観察しても、刀の内実を想定することは非常にむずかしい。
 そこで、地肌の鍛え方や刃文の様子を知る、つまり刀の質や内実を探るには、研いでみるのがいちばん手っ取りばやい方法なのだ。もっとも、錆が刀身の中心(芯鉄)まで食いこんでいる錆身をいくら研いでみても、本来の地肌が姿を現わすことはない。研磨の前提には、錆がどれほど深いものなのか、あるいは平造り(ひらづくり)や諸刃造り(もろはづくり)、鎬作り(しのぎづくり)の別なく、刀身の健全な平肉がどれだけ残存しているかを想定できる目や、錆の性質に関するある程度の専門知識がなければ、ただ貴重な文化財を磨り減らすだけで意味がない。
 余談だけれど、日本刀の研師の間では古墳から出土した刀剣などの金属器が、昔から珍重されてきた。それは、たいせつに保存される対象としてではなく、磨き粉として消費される原材料としてだ。日本刀の地肌のおもにツヤ出し用に、古墳刀(良質な鋼)の錆を細かく砕き、“磨き粉”として用いる研磨技法が一部で伝承されている。文化財の保護担当者や古代史学者が聞いたら目をむきそうな手法だけれど、江戸の昔から用いられていた独特な研ぎの技術なのだからしかたがない。錆びた鋼の粉末は、刀のツヤ出しには威力を発揮するらしいが、わたしはまだそのような仕事を一度も見たことがない。だから、刀が美術品として特に尊重されるようになった室町期以降に、つぶされて磨き粉にされてしまった古墳刀は、実は膨大な数にのぼるのかもしれない。
 
 近世における刀の鍛錬法には、実に数多くの技法が存在している。それらは、おもに平安末期から鎌倉期以降に開発された鍛錬法の膨大な分派バリエーションなのだが、それよりも400~600年ほどはさかのぼるとみられる古墳刀の鍛錬技法は、平安末以降の作刀技術に比べればきわめて初歩的で、わたしはまだまだ未熟かつ稚拙なものを想像していた。ところが、実際に研磨してもらった古墳刀は、予想以上にいい出来ばえだったのだ。地肌を観察すると、のちの作刀技術とたいして遜色がなく、中世の作品といっても通用しそうな品質を備えている。戦国時代の“数打ちもの”(大量需要からの粗製乱造品)よりも、かなりていねいな仕事がなされている印象を受ける。また、硬軟の鋼を使い分ける、皮鉄と芯鉄および刃鉄との組み合わせ鍛錬も、すでに行われていた(!)ようだ。
 軟らかい鋼と硬い鋼とを、刀身を鍛えるときに組み合わせることによって、折れにくく曲がりにくい作品を産み出すことができる。特に刃部は、打撃や斬撃に対する強度を高めカミソリのような斬れ味を実現するために、高品質な硬い鋼を用いていることが多く、それをまるで饅頭の皮のように軟らかい鋼で周囲をくるむ。刃鉄と芯鉄とが分離している場合は、刃鉄を支えるやはり硬い芯鉄が、饅頭のアンコのように刀剣の中心部へ位置するように鍛えられる。これにより、折れず曲がらずよく斬れる・・・という、のちの日本刀と同様の品質を確保できるのだ。
 日本刀は西洋の剣のように、単に鋼を折り返して素延べ(圧延)しただけのものではなく、非常に複雑かつ超専門的な鍛冶技術を必要とする。上記の数種類の鋼の用い方を見ても、火床(ほと)で鋼を柿色に熱し、何度も折り返し鍛錬を行うにもかかわらず、芯鉄はちゃんと刀身の中心へ、刃鉄はきちんと刃部へ、皮鉄はそれらを保護するように周囲へと圧延されていくのだから、作刀に関する技法は昔から「マル秘」扱いにされることが多い。日本刀は世界に例を見ない、オリジナルの高度な技術によって産み出された作品なのだ。この折り返し技法は膨大な種類におよぶのだけれど、現在まで解明されている技法はそれほど多くない。そのような日本刀とまったく同じ鍛え方や作刀技術が、すでに古墳刀にも同様にほどこされていたことが、最新の研究によって明らかになってきた。


 さらに、刃の斬れ味や強度を高めるために、素延べ(折り返し鍛錬によって刀のかたちにした原型)の刀身や刃部に、土取り(良質の粘土を塗ること)をして松炭などの高温で熱し、土が剥脱しないまま湯桶へ一気に浸けて冷却する、いわゆる「焼き入れ」技法もすでに確立されていたことが判明している。ひょっとすると、土取りの方法によって多彩な刃文や、湯桶の温度によるさまざまな効果(錵・匂いのつけ方)までが、いまから1500年以上も前にある程度確立されていたのかもしれない。それは、古墳刀ごとに異なる錵(にえ=高温で熱して一気に冷却することで生じる地肌や刃文の大粒な結晶)や、匂い(におい=熱した刀身を徐々に冷却することで生じる微細な結晶)の違いを観察しても、すでに数多くの技法が存在していたことがわかる。
 古墳刀やがては鎬(しのぎ)造りを中心とする日本刀(湾刀)の、高度な技術が全国に伝播していく流れは、稲作文化や青銅器文化のように中国や朝鮮半島との関係が濃かった西日本から東日本へ・・・ではなく、まったく逆に東日本から西日本へと拡がっている様子からも、他に例のない日本ならではのオリジナル技術を醸成しえた要因といえるのかもしれない。         <つづく>

■写真上:埼玉県の将軍山古墳(6世紀前半)から出土した、鎬(しのぎ)造りでは日本最古の古墳刀。鋩(きっさき)には刃文の返りまでが明確に見られ、のちの日本刀の造りとなんら変わらない。綾杉肌のようにやや複雑な板目鍛えをしており、刃文には荒錵(あらにえ)が目立つ。石井正國・佐々木穣共著の『古代刀と鉄の科学-増補版』(雄山閣/2006年)の巻頭グラビアより。
■写真中:左は、古墳刀が随所に眠っていそうな目白崖線の斜面。「百八塚」伝承やミステリーサークルClick!とも密接な関係がありそうだ。右は、群馬県の愛宕山古墳(6世紀後半)出土の平(ひら)造りの刀。流れ板目の地肌に、皆焼(ひたつら)に近いような荒錵がいちじるしい。
■写真下:上は、目白崖線から出土した古墳刀。すでに鋩(きっさき)にフクラ(丸み)がついており、切刃(きりは)造りが中心の西日本に多い朝鮮刀のカマス鋩(鋭角な鋩)とは、明らかに次元の異なる造りをしている。また、刃文も大乱れに近い“のたれ”を見せており、日本刀への進化まであと数歩というところ。下は、現在の刀剣史では日本刀(湾刀)への革命的な進化の一歩と位置づけられている、東北からの出土例が多い蕨手刀(わらびてとう)。茨城県の高根古墳(7世紀前半)出土の作品で、すでに室町期にみえる大平(おおひら)造りによる寸延び短刀のようなデザインをしている。