わたしの江戸後期の先祖には、どうやら町火消しがいたようなのだが、それが纏(まとい)を預かるほどの規模だったのか、それともいずれかの町火消しに属して家内の何人かが加わり活動していたものか、詳細はわからない。なにしろ、江戸はしょっちゅう火事にみまわれていたのだから、なにかの書付や書物など記録の類は、なかなか街中では残らない。明治以降も、関東大震災Click!や東京大空襲Click!で多くの貴重な資料が灰になった土地柄だ。
 最近、「江戸歴史検定」とかいうのが盛んで、江戸時代をテーマにした“試験”までが存在するそうだ。そういう試験やTVクイズなどで、よく出されそうな問題に町火消しのテーマがある。「享保年間に南町奉行の大岡忠相が設置した町火消し47組のうち、なかった組は何組か?」なんて問題が出て、「へらひ」の3組と答えると正解なのだそうだ。ついでに、「へらひ」がない代わりに「百千萬」組が追加された・・・なんて解説が付くことも多い。だから、江戸の街には「へ組」も「ら組」も「ひ組」も存在しなかった、なんて思われている方が多いのに驚く。ウソだ、ちゃんとあったのだ。
  
 1719年(享保4)4月に町火消しの設置を企画して決めたのは、大岡越前だけではない。中山出雲に坪内能登、それにもっとも大きな役割りを果たしたのは、奉行所にボトムアップした町場の年寄肝煎名主の5人衆だろう。もちろん、このとき47組(すぐに「本組」=「ん組」が加わって48組)の中に、「へらひ」各組も存在している。ちなみに、「へ組」の担当区域は芝・高輪・泉岳寺あたり、「ら組」は四谷の箪笥町・伊賀町・寺社門前町周辺、「ひ組」の受け持ちは青山・七軒町・大工町界隈だった。翌1720年(享保5)8月まで、この3組は市中で活躍している。
 また、濹東が大江戸Click!に編入されると、「一組から十六組までの濹東火消しが設置された」という話も、このところブームの江戸本などでよく見かける。これも、設立当初の実像とは異なっている。確かに、「一組」から「八組」までは本所や深川、亀戸などの濹東エリアだけれど、残りの組(飛び番で「四十四組」まであった)は小石川や谷中、牛込、市ヶ谷、渋谷などの乃手地区あるいは場末(ばすえ=江戸期は“郊外”の意)、寺社門前町などの受け持ちだ。この編成も、翌年の「町火消組合御改」までつづいていた。
 
 時代劇などを見ていると、火の見櫓の火事番が町中に火の手を見つけたとたん、半鐘をジャンジャン打ち鳴らすシーンが登場する。いまでは、これになんの不自然さも感じなくなっているけれど、これも事実とは違っている。町火消しの火の見が火事を見つけても、いきなり半鐘を鳴らすことなどありえない。幕府の定火消し(じょうびけし)の火の見が、火災を見つけて確認し太鼓を打ち鳴らすまでは、半鐘打ちを遠慮するのが暗黙の“お約束”だった。だから、定火消しの火の見がトンマでぼやぼやしていると、火災はどんどん拡がってしまう。定火消しの太鼓を待たず、半鐘を鳴らさないまま火事場へ町火消しが出動したことも少なからずあったと思われる。
 
 目白・下落合界隈を散歩していると、ときどき半鐘に出合うことがある。いまは火の見櫓が存在しないから、役目を終えてしまった半鐘たちだ。戦時中の町場では、「金属供出」で多くの半鐘が溶かされ、あるいは行方不明となってしまったけれど、乃手では寺社などにちゃんと保存されているケースが多い。金乗院(目白不動)Click!の前にも、そんな半鐘のひとつが残っている。この半鐘は昔日、高田町(現・目白界隈)の町役場に隣接していた火の見櫓に設置されていたものだろうか?
 それがいまだに吊るされていたりすると、木槌でジャンジャンたたいてみたい誘惑にかられる。

■写真上:金乗院門前に吊るされた半鐘。戦時中の「金属供出」をまぬがれたらしい。
■写真中上:1719年(享保4)4月現在における、町火消しの「へ」「ら」「ひ」各組の纏印。
■写真中下:左は、高田町役場に建っていた1933年(昭和8)の火の見櫓。右は、現在の同櫓跡。
■写真下:左は、安藤広重の『名所江戸百景』のうち「馬喰町初音の馬場」に描かれた火の見櫓。右は、神田明神下の“いの一番”だった「い組」の威容。薩長軍が上野山へ火を付けたとき、駆けつけた江戸じゅうの町火消しと対峙してにらみ合い、一触即発状態になった話は有名だ。