大正期には、とんでもなく贅沢だった「電気の家」Click!だけれど、昭和に入ると“中流”と定義された家庭には、いっせいに電気調理器が普及しはじめている。また、住宅における台所の考え方や配置も、このころになるとかなり変わってくる。1931年(昭和6)に発行された『主婦之友』12月号には、キッチンについて当時の人々のとらえ方が変わる、節目の様子が記録されていて面白い。
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 これまでの日本の家では、台所は家の西または北に設けてありますが、これは大変な間違ひで、台所は一家の生活力の根源をなす大切な場所ですから、よろしく東南の明るい場所に優遇すべきであります。/北向きの陰気な台所や、西陽の射し込む熱苦しい台所は、主婦の能率を低下させ、延いては、一家の生活力を減退させる結果にもなります。(同誌「中流家庭向きの模範的なお台所」より)
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 江戸期からつづく日本家屋では、常に“日陰”の存在だった台所や食卓(食堂)が、家の中心へと変貌する過渡的な様子を伝えている。記事に掲載された台所のイラストは、設備のデザインこそ古いものの、現在のキッチンとなんら変わらない設計配置であることがわかる。流しや戸棚、さまざまな調理器具がシステム化されている様子もわかって興味深い。
 中でも目を惹くのは、ガスレンジに加えて電気レンジ/オーブンが普及していることだ。これは、関東大震災Click!のあとガス管が寸断され、その復旧が大幅に遅れたため、バックアップ用の調理器具として急速に普及していったものだ。普段は、ランニングコストの低いガスレンジを使用し、ガスが停止したときには電気レンジ/オーブンで調理する・・・という、生活インフラに対する当時の重要な危機管理のひとつだった。
 
 再び、同誌から引用してみよう。
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 このお台所は、四畳半の大きさの洋式(立動式)であります。お台所だけでは、なんといつても、洋式の方が、能率的です。/家の東南隅を占領してゐますので、場所としては申分のない、明るい、気持ちのよいお台所であります。/東側と南側の全体にわたつて、奥行一尺あまりの出窓を設けましたので、非常に広く使へて便利です。/東側の出窓の下に、冷蔵庫と立流台と瓦斯台を、きちんと嵌め込みました。/この冷蔵庫は私が註文して作らせたもので、氷の配達人が来る毎に、台所に上り込まないでも済むやうに、氷の出し入れは、お勝手口の外からできるやうにいたしました。
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 ここで紹介されている冷蔵庫は氷を使用しているタイプだけれど、おカネ持ちの家ではいち早く電気冷蔵庫が普及している。台所の設計は、もちろん「立動式」の洋風で、座りながら仕事をする旧来の和風台所は急速に姿を消していった。
 
 電気調理器に関しては、面白い逸話が残っている。当時の電気料金は、基本料+契約料+超過使用料だった。つまり、ある一定のメーター数値を規定した契約料の範囲内であれば、電気は使いホーダイの定額だったのだ。契約料の内訳は、おもに地下水を汲みあげて水道タンクへと蓄える、毎月のポンプにかかる電気代だ。ところが、あまり水を使わない冬季には、契約料の電気使用量にいくらか余裕ができる。その余裕が出たときだけ、電気レンジやオーブンを使う家庭が急に増えたらしい。
 ガスに比べ当時の電気代も、かなり割高だったのがうかがえるエピソードだ。

■写真上:昭和初期に見られた、典型的な台所風景。
■写真中上:1931年(昭和6)の『主婦之友』12月号に掲載された、最新設備の台所イラスト。
■写真中下:左は、同イラストの平面図で、下が北側になる。右は、林唯一邸Click!の台所。
■写真下:左は、イラストの拡大。右は、島津源吉邸Click!の台所に置かれた同型の電気レンジ。