氷川明神の正面鳥居の斜向かい、戦前は交番があった角の道路をはさんだ反対側の道端に、文化13年(1816年)に建立された庚申塔Click!が、いまでもそのまま残っている。すでに風化が進んで表情はわからないが、憤怒の形相をしていたはずの青面金剛が舟形の石碑全体に大きく彫られ、足下には邪鬼が踏んづけられている。さらに、その下には台座を支えるように、庚申信仰の象徴である「見ざる言わざる聞かざる」の3猿が浮き彫りにされている。この塔には、「ぞうしが屋」(雑司ヶ谷=目白)と「くずが屋」(葛ヶ谷=西落合)の道標も刻まれており、この鎌倉街道がその昔「雑司ヶ谷道」と呼ばれた面影をしのばせている。
 この付近には、もうひとつの庚申塚が存在していたことが、古くからの住民の方のお話や下落合関連の資料などで読んで、ずいぶん前から気になっていた。それは七曲坂に設置されていた庚申塚で、戦前には確実に坂の上に小さな祠とともに存在し、やはり江戸期のものだというお話だった。わたしが下落合の庚申塚が気になったのは、妙見信仰Click!と同様に“北斗七星”につながりがあるのと、もうひとつ下落合の大六天(第六天)Click!に関連して、神道の側面からサルタヒコ(猿田彦)の伝承とも色濃くつながっているからだ。もちろん、これらの連関は江戸期の付会が数多く含まれているのだろうけれど、サルタヒコの原像が出雲生まれの国津神である点は興味深い。
 
 
 さて、七曲坂の庚申塚があった場所というのは、坂を上りきった右手、現在の落合中学校のグラウンドがある南隅だった。いまは石のベンチが据えられた、ちょっとした休憩所となっているネコの多い三角スペースの向こう側あたりだ。戦前はそこに小さな木造の祠があり、庚申塚はその中に収められていた。戦前のこのあたりは、昼なお暗い雑木林がたくさんあったエリアで、現在のグラウンド側はイチョウ並木が、南側の権兵衛山Click!(大倉山)側にはヒマラヤスギの並木がうっそうとつづいていた。このあたりで遊ぶ子供たちは少なく、親からは「人さらいが来て、サーカスに売られちゃうよ!」と脅かされた、下落合でも有数のさびしい“危険地帯”だった。庚申塚の祠は、相馬邸Click!の御留山Click!へと抜ける細道から、少し路地を入った先に建立されていたようだ。
 七曲坂の庚申塚は、W様の庭内でそのまま大切に保存されていた。戦後、落合中学校のグラウンドが造成されるとき祠は廃棄されたらしく、現在は碑がむき出しの状態となっている。さっそく、「落合の緑と自然を守る会」の堀尾様からお誘いをうけ、W邸へうかがいじっくりと拝見してきた。
 
 まず驚いたのは、この庚申塚が造られたのが1690年(元禄3)と、予想以上に古いことだ。氷川明神前の庚申塔からして、江戸時代後期、化政時代あたりの庚申塚を想定していたのだけれど、予想以上に古いものだった。舟形をした碑は、上部3分の1ほどのところで一度ポッキリ折れているようで、おそらく大正期以降にセメントで接合されている。大きさはタテが1,020mm、ヨコが420mmとかなり大きな堂々とした庚申塚だ。
 風化が激しい碑面には、上部に樹木のような浮き彫り(末広松または葡萄唐草か?)がほどこされており、碑文をはさんで下部には、お約束の「見ざる言わざる聞かざる」の3猿が彫られている。さらに、その下にも文字が並んでいるけれど、磨耗が激しく拓本でも取らないと判読できない。セメントの接合部があるので完全には読み取れないが、碑文はおよそ次のように刻まれている。
 元禄三庚午年
 ○成○(願?or就?)庚申
 ○月三日
 W様のお話によれば、先日、新宿区の教育委員会が調査に来訪し、近々この庚申塚を七曲坂側の道端へ移動して、戦前のように誰でも拝観できるように計画中らしい。実に、戦後50~60年ぶりの、下落合は七曲坂庚申塚のお目見え、復活となるわけだ。
 
 でも、ちょっと気になったのは、ネコたちのいる三角コーナーあたりを再整備する際、あそこに生えている大イチョウを伐る・・・と新宿区が言っているらしいことだ。樹木があそこまで育つのは、並たいていの年月ではないし、なによりも大イチョウClick!は江戸期から防火・防災除けとして語り伝えられている独特な樹木だ。七曲坂の上に涼しい木蔭を提供している、あそこまで育ったイチョウを、わざわざ伐ってしまうことはないと思うのだが・・・。

■写真上/中上:七曲坂の上にひっそりとたたずむ、1690年(元禄3)に建立された庚申塚。
■写真中下:左は、1947年(昭和22))の空中写真にみる庚申塚あたり。落合中学は建設されておらず、祠つきの元の姿をしていた思われる。右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同界隈。
■写真下:左は、伐ってほしくない庚申塚近くの大イチョウ。右は、氷川明神前に残る庚申塔。