パリで佐伯祐三と娘の弥智子を一度に失って帰国した佐伯米子は、すぐに下落合へはもどらなかった。1929年(昭和4)には、第2次滞仏にあたって留守番を頼まれていた鈴木誠Click!一家は、林泉園の尾根づたいに建っていた旧・中村彝アトリエClick!へと移転していたけれど、米子は自宅へはもどらずに、新橋にある実家の池田家へと身を寄せた。
 明治期から、新橋で象牙商をしていた米子の実家は、1923年(大正12)の関東大震災で蔵にいっぱい詰まっていた象牙をすべて灰にしてから、それまで繁盛していた商売が傾きはじめている。米子がパリからもどり、身を寄せた昭和初期のころは、経営がかなり難しくなっていただろう。彼女は実家で、佐伯の遺作展などへのかかわりを除けば、しばらくは好きな絵を描く以外、なにをするでもなく日々ボンヤリとすごしていたようだ。佐伯祐三の想い出などを、雑誌などへ頻繁に執筆しはじめるのは、もう少しあとのことだ。
 近くの有楽町か銀座でかかる映画を、ぶらぶら観て歩いた日々もあったらしい。ところが、それら観てまわった作品の中に、ソビエト映画の『人生案内』(ニコライ・エック監督/1931年)があった。ソ連初の最先端トーキー映画として、ベネチア国際映画祭で監督賞を受賞した、いまや伝説と化している作品だ。彼女は、この映画にひどく感動してしまう。いや、映画のストーリーや俳優の演技に感動したのではない。映画のストーリーは、革命後のロシアで親を亡くし、街中を徘徊していた“浮浪児”たちを扱った作品。彼らが教護院へと送られ、少しずつ人間性と取りもどし労働の喜びに気がついていく・・・という、流行りのモンタージュ手法を多用した、ややプロパガンダ臭が濃厚な作品なのだが、彼女が感動したのは子供たちのひたむきな更正物語ではなかった。米子が魅せられてしまったのは、映画のシーンに登場した工場で稼動する機械群だったのだ。
 長谷川時雨Click!が主宰した『女人藝術』Click!のあと、再び発刊をはじめた『輝ク』の会員になっていた米子は、そのときの様子を次のように書いている。1933年(昭和8)の『輝ク』10月17日号に掲載された、彼女の「私の夏」から引用してみよう。
  
 私は水の中に油が入つたやうに一人ぼつち心の悲しみ悲しみをなぐさめることも出来ず、どうしてよいのかわからぬ月日を送りますうち、それでもその中で絵をかいてをりました。ある日映画の「人生案内」と申すロシヤの写真を見ましてその中の機械がたまらなくうつくしく思ひました。かへりの自動車の中でうれしくてうれしくてたまらなく、次にかく絵を考へました。(佐伯米子「私の夏」より)
  
 
 機械の魅力に取り憑かれた米子は、次々と東京各地の工場を訪れては、製造現場で稼動するさまざまな機械を写生し、油彩画へと仕上げていく。独身時代には日本画を川合玉堂に習い、結婚後は西洋画を夫に習った彼女は、才能のあるなしやうまいへたは別にしても、もともと絵を描くことが好きだったのだろう。それまでに、いくつかの展覧会で入選したりもしている。
  
 そして幸ひ知つてゐる家に砂村と云ふところに網の工場のあるのを思ひ出して、いつもたづねたことのないその工場を見にまゐりました。
 ひろい工場の中に廻転する機械を銀色のハリガネがどんどん出来て行くのをしみじみ見とれてしまひました。
 もうどこから手をつけてよいのかしらとうれしくてまよつてしまふほどでした。
 画きはじめますとやはり思つたやうにうれしくて、いくらかいてもかいてもきりがないほど久しぶりで、絵をかくことが出来て、絵をかくのがたのしいとはじめて思ひました。  (同上)
  
 米子は、次々と各地の工場を訪ね歩くことになる。砂村(当時はすでに城東区砂町だったはずだ)の網工場を皮切りに、鍛冶工場、ゴム風船工場、自動車部品工場、鉄工場など、次々と訪れては制作してまわっている。暑い工場の中でキャンバスに向かう米子は、顔を石炭の煤で真っ黒にしながら、洗いざらしの浴衣姿に手ぬぐいで頬っかぶりをしていたらしい。もともと身体が丈夫ではない彼女は、夏が終るころにはすっかり疲れ果ててしまう。それでも描くのをやめずに、秋の二科展へ向けて作品を制作していった。
  
 見方を変えれば、この一連の自虐的とも見える彼女の行動には、いったいどのような内面的うつろいがあったのだろうか? フランスからひとり、生き残って帰国したうしろめたさや悲しみがトラウマとなって、彼女を突き動かしていたのだろうか。それとも、当時の左翼的あるいはリベラルな女性たちの創作活動を眺め、自身もその流れに身を投じたいがために選んだ“現場”が、そしてやモチーフが「工場」だった・・・ということなのだろうか。『女人藝術』のあとを受けて出発した、この時期の『輝ク』に寄稿しているのも、そんな時流に遅れまいとする意図をどこかに感じる。このとき、米子は自身も絵を描いて暮らしていけたら・・・と、思いはじめていたのかもしれない。
 この『輝ク』が発刊された1933年(昭和8)の秋、同誌の会員になっていた何人かの洋画家たちが、秋の展覧会へさまざまな作品を出品し入選している。二科における女性の洋画家第1号である甲斐仁代Click!をはじめ、長谷川春子(長谷川時雨の妹)、深沢紅子、橋本はな子などだ。二科へ出品した佐伯米子も、その中のひとりだった。

■写真上:1933年(昭和8)の『輝ク』10月17日号に掲載された、佐伯米子の「私の夏」。
■写真中は、ソ連初のトーキー映画『人生案内』(ニコライ・エック監督/1931年)。は、1933年(昭和8)に二科へ出品された佐伯米子『鍛冶』で、鍛冶工程の圧延機を描いているようだ。
■写真下は、1925年(大正14)ごろアルルのはね橋前に立つ佐伯米子。は、戦後に米子が手がけた『婦人之友』の表紙。1963年(昭和38)9月号(左)と、1965年(昭和40)8月号(右)。