会津八一Click!がずっと思いつづけ、こだわりつづけた洋画家・渡辺ふみClick!(=渡辺ふみ子/亀高文子)について、もう少し書いてみたい。渡辺ふみの夫である渡辺與平(=宮崎與平)は、文展に入選してごく短期間だが活躍した洋画家であり、下落合にも住んだ竹久夢二Click!と並び称される挿画家としても有名だった。そのタッチは夢二とそっくり・・・というか、夢二のほうが渡辺與平の叙情的なタッチに強く影響を受けたといったほうが正確だろうか。渡辺與平は、1912年(明治45)に25歳で急死しているので、その後も制作をつづけた夢二のほうが、時代とともに有名になっていった。この夭折した渡辺與平の妻が、渡辺ふみだったのだ。
 渡辺ふみは、日本画家・渡辺豊州の娘で、宮崎與平は結婚すると同時に渡辺姓へ変わっている。ふたりは文展で活躍し、第5回文展(1911年・明治44)では渡辺ふみが『読書』、渡辺與平が『帯』を出品して、ともに仲よく入選している。與平が急死すると、渡辺ふみはふたりの幼児を抱えて暮らしに困り、夫と同様に挿絵や口絵の仕事をして生計を立てていた。会津八一が、猛烈なアプローチを再開したのはこのころのことだ。
 渡辺ふみが宮崎與平と結婚する以前から、会津八一は彼女のことを強く意識しており、ひたすら思いを寄せていた。でも、ふみが結婚してしまうと一度は諦めたが、夫の急死とともに再び彼女への思いが再燃したようだ。頻繁に彼女のもとへと出かけ、ときにはいっしょに房総半島を旅行したりもしている。この時期、渡辺ふみも行く末について迷っていたのかもしれない。にもかかわらず、会津の思いはついに彼女へはとどかなかった。やがて、渡辺ふみは東洋汽船の船長だった亀高五市と再婚し、関西へと去ってしまった。亀高文子と名のるようになった彼女は、その後も洋画界で活躍をつづけることになるが、またしても失恋をしてしまった会津八一は、下落合の秋艸堂Click!でますます頑固かつ傲岸不遜な性格となっていく。
  
 渡辺ふみは、幼いころから父親の傍らで絵を描くのが好きで、女学校を卒業すると女子美術学校へ入学している。父親も大賛成だったらしく、本人も書いているように洋画家への道になんら困難さや障害を感じなかった。ただ、女性画家はまだめずらしい時代で、周囲からは奇異に見られていたようだ。1922年(大正11)に発行された、『婦人倶楽部』3月号から引用してみよう。
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 御承知の通り其の時分は未だ洋画科の生徒は少なく、世間でも余り洋画に対して理解がありませんでしたので、外へ写生に出かける時などには人知れぬ苦痛もないではありませんでした。絵具箱を肩にして写生に行く姿を薬売りに間違へられるやうな滑稽さへもございました。只絵を描くことにばかり気をとられて居た私達は一般の若い婦人と違ひ、なりにも振りにもかまはず日に焦けて真黒になつて勉強いたしました。 (同誌「苦しみよりも楽しみ」より)
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 ふみは、満谷国四郎Click!に弟子入りして本格的な勉強をはじめているが、ひとりの画家に付いていてはダメだという満谷の意見にしたがい、やがて谷中にあった太平洋画会Click!へと通っている。彼女は、そこで中村彝Click!や中原悌二郎Click!、大久保作次郎Click!、鶴田吾郎Click!、長沼智恵子(のち高村智恵子)、坂本繁次郎たちと知り合っている。
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 (前略)太平洋画会の研究所に通つて勉強いたしました。恰度其の時は中村不折先生が帰朝されたばかりでしたので、先生の個人展覧会は大変な評判でございました。私は先生の絵を見て非常に感心いたしました。長い年月学校に居て、何をして居たのかと自分ながら無為に暮した過去の生活が顧られて恥しくなりました。その頃太平洋画会は、なかなか盛なもので、中村彝さんや故人の中原悌二郎さん等の秀才が熱心に研究して居りました。其の中に交つて勉強することになつた私は自然周囲に励まされたり、刺激されたりせずには居られませんでした。 (同上)
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 この文章が書かれた1922年(大正11)当時、すでに彼女は東京を去り、神戸に転居して亀高文子となっていたが、会津八一はいまだ未練がましくこの文章をどこかで読んでいたかもしれない。渡辺ふみは会津に、それほど強烈な印象と思慕とを植えつけた女性だったようだ。若いころの写真を見ると、渡辺與平が描いた挿画の女性像に、どこか面影が似ているようだ。
 会津が曾宮一念Click!に語った「(女性は)美しくなくては・・・」という好みとは、こういう女性のことだったのか・・・と、1912年(明治45)発行の『婦人画報』3月号に掲載された、渡辺ふみの全身写真をジッと見つめてみる。

■写真上:左は、1912年(明治45)ごろアトリエの渡辺ふみ。右は、1916年(大正5)ごろ大森の望翠楼ホテルにおける「木原会」の渡辺ふみ(亀高文子:左)で、彼女の右側は鶴田吾郎。
■写真中:渡辺與平が描いた絵はがき類で、竹久夢二と見まがう表現の女性像だ。
■写真下:左は、アトリエにたたずむ渡辺ふみで、背後には夫が描いた『帯』が見えている。右は、1911年(明治44)制作の渡辺與平の『帯』。