子供のころ、9月になると家の中でかかっていたピアノ曲があった。おふくろが好きだった、エリック・サティの「夏のおわりに」が入ったレコードだ。当時のことだから、きっとチッコリーニ盤のいずれかだったのだろう。夏から秋へのうつろいを感じると、いまでもメロディが頭に浮かんでくるから、幼児体験というのは強烈なのだと改めて思う。
 当時、9月ごろに関東地方へ上陸した台風の中、平気で遊んでいたのを憶えている。1960年代には、台風は40号近くまで日本付近にやってきていた。あたりが明るくなって風がおさまると、さっそく外へ出て遊びはじめるのだけれど、空を見上げると周囲は厚い雲だらけで、真上だけが丸くポッカリ青空がのぞいている。台風の目の中に、スッポリと入ってしまったのだ。ものの30分もたたないうちに、またしても暴風雨が襲ってきて遊びは中断。子供たちは、あわてて家の中へ逃げ帰ることになる。勢力がそれほど大きくない、風雨も弱い小型台風の場合には、親たちが呼びに来るのも無視してそのまま遊びつづけたこともたびたびだった。
 湘南海岸Click!には、浜辺沿いにずっと防砂林が密に植えられていて、その中へ避難すればずいぶん雨風がしのげたのだ。防虫のため年に一度、ヘリコプターでDDTを散布していた防砂林だけど、そんなことは気にせず松葉で“基地”を造っては遊んでいた。黒松の林は、確かに海岸から吹き寄せる砂はずいぶん防いでくれたけれど、潮風の潮は防げなかった。台風が通過すると、窓ガラスが一面磨りガラスのようになってしまったのを思い出す。防砂林は、サーフィンをするお兄ちゃんやお姉ちゃんたちの“避難所”でもあった。秋が深まり気温が低くなると、松林へ避難しては身体を温めていたのだろう。もうひとつ、風雨や寒さの“避難所”として、海岸に残されたコンクリートの廃墟があった。わたしも、そんな廃墟の中でずいぶん遊んだものだ。
 
 分厚いコンクリートでできた廃墟は、1945年(昭和20)に米軍のコロネット作戦(首都攻略の上陸作戦)に備えて造られた、トーチカ跡や砲台座の跡だった。米軍が東京をめざすには、湘南海岸か九十九里浜のいずれかへ上陸するのがもっとも効率的だと予想され、神奈川と千葉の両海岸へ突貫工事で造られていったのだ。戦争が終わろうとする夏、予備役になっていた義父は九十九里浜で炎天下の塹壕掘りをやらされていた。わたしが物心つくころまで、それら「コロネット作戦」に備えた残滓は、いまだ砂浜のあちこちに点在していた。茅ヶ崎砂丘がようやく米軍から返還され、そこへ当時は「マンモス団地」と呼ばれた浜見平団地ができて間もないころの話だ。
 米軍が占領した茅ヶ崎砂丘は、日本海の内灘と同様に米軍の射爆場として使われていた。わたしは知らないけれど、茅ヶ崎砂丘から沖の烏帽子岩(えぼしいわ)へ向けて射撃訓練をする音が、戦後すぐの海岸一帯にはよく響いていたそうだ。そのせいで、せっかく烏帽子のかたちをしていた岩が、ただの三角形に近い岩になってしまったと、わたしが子供のころまで地元の方たちは嘆いていた。ただの三角形になってしまった茅ヶ崎沖の烏帽子岩も、よく晴れて空気が澄んでいれば、わたしの住んでいた家の2階から眺めることができた。
 
 少し前、鎌倉Click!を歩いていたら山の頂上で、空襲に備えた機銃の台座らしきコンクリートのかたまりを見つけた。大磯Click!の裏山にも、わたしが子どものころにはあちこちに残っていた。千畳敷山(湘南平)の頂上には、巨大なコンクリートの平板なかたまり=台座が残っていたけれど、あれは高高度を飛行するB29に備えた高射砲陣地の跡だと教えられた。まったく同じかたちのものが、まだ家が少なかった平塚の高浜台にいくつもあったので、そこにも大きな高射砲陣地があったのだろう。平塚には海軍の火薬工廠があったので、B29による空襲を受けたけれど、大磯は機銃掃射のみの被害で済んでいた。山の下をグラマンが飛ぶので、湘南平の高射砲は1発も撃たずに8月15日を迎えてしまったと、地元の人たちが苦笑しながら話していた。
 夏の終わりになると、サティの物悲しいメロディと潮風の匂いと、台風による風雨の音と、そんなキナ臭さがまだ随所に残る湘南海岸の情景が、わたしの脳裏に薄っすらとよみがえってくる。

■写真上:鎌倉の由比ヶ浜にて。
■写真中:左は、鎌倉の八雲神社の裏山山頂に残る、もともとは機銃座らしいコンクリートの台座。右は、大磯の黒松林から西を眺めた海岸線で、遠くに連なるのは伊豆半島の山々。
■写真下:左は、1951年(昭和26)にとらえられた茅ヶ崎沖の烏帽子岩。三宅邦子(左)と原節子(右)の間に見えている三角形の黒い点がそれで、小津安二郎の『麥秋』より。右は、1952年(昭和27)に撮られた今とあまり変わらない大磯駅で、小津安二郎の『お茶漬の味』Click!より。