親父が仕事の関係で神奈川に住みながらも、最優先で取り組んでいた東京の“運動”のひとつに、大川(隅田川)の大橋(両国橋)花火大会復活のテーマがあった。無知で傲慢な明治政府の手で、神田明神から外された将門の主神復活Click!もそうだが、柳橋あたりで花火復活をめざす集りがあると、酒が一滴も飲めないのに、なにはさておいても必ずマメに出かけていった。戦時中を除き子供のころから毎年、両国花火大会を日本橋側から観なれていただろう親父は、どうしても柳橋Click!に集中していた料理屋Click!やすずらん通りClick!、あるいは千代田小学校Click!(現・日本橋中学校)の屋上からもう一度、両国花火大会を見たかったに違いない。お盆がすぎた7月下旬の蒸し暑い夜、大川で納涼花火が上がらなければ、とにかく江戸東京の街ではない感覚だったのだろう。
 1733年(享保18)から始まったとされる両国花火だが、戦時中の数年を除いて1961年(昭和36)に防火事情と交通の悪化を理由に中止されるまで、実に230年近くもつづいていたことになる。花火大会は、わたしが学生時代の1978年(昭和53)に復活するのだけれど、両国の花火大会ではなく「隅田川花火大会」となってしまい、打ち上げ場所も伝統ある両国橋の北側=柳橋の前から、かなり上流の浅草寄りへと移動してしまった。打ち上げ場所が変わってしまったことに渋い顔はしていたけれど、とりあえず大川に花火大会がもどったということで、いちおうは親父も満足していたのだろう。TVの前にソファをドッカとすえて、花火中継をうれしそうに観ていた顔が浮かぶ。
 
 両国橋は1659年(万治2)、千住大橋に次いで隅田川に架けられた大規模な橋だ。江戸期に造られた本来の木橋は、現在の位置から下流へ40mほどのところに架かっていたのだが、明治期に一度上流へ20mほど動いて鉄橋となり、関東大震災のあと元柳町Click!を“消滅”させるかたちで両国広小路ごと、さらに上流の現在地へと移動している。当初から両国橋と呼ばれることは少なく、「大橋」と呼びならわされてきており、親父もそう呼ぶことが多かった。
 この橋をめぐるエピソード「両国橋物語」は、本が1冊できるどころの話ではなく、各時代ごとに分けて全集が作れてしまうほど多いだろう。専門のサイトを作って毎日更新しても、おそらく10年以上はネタに困らないほどの物語が眠っている。なにしろ、大江戸Click!随一の繁華街だったわけだから、今日の感覚でいえば東京で人がもっとも多く集まる新宿や銀座の街に相当するだろうか。この橋をわたった小説の主人公も、200人や300人ではきかない。歴史上の人物も同様だ。親戚まわりをして、お情けでめぐんでもらった年越しの餅を、悔しくてこの橋の上から大川へバラまいた貧乏な勝海舟もいれば、「超バカバカしくてやってらんね~」とばかり鋳掛道具を投げこんだ、河竹黙阿弥『舟打込橋間白浪(ふねにうちこむ・はしまのしらなみ)』の鋳掛屋松五郎Click!なんて白浪(泥棒)もいたりする。日本橋ともども、この橋をモチーフにした絵は、それこそ無数にあって数が知れない。
 
 
 日本橋側から大橋をわたると、そこはすぐに南本所で吉良邸Click!にもほど近いのだけれど、最近「両国花火資料館」というのが東詰め近く、ビルの1階にオープンしている。江戸期から今日までの花火大会の歴史や、実際に再現された江戸時代の花火などが展示されていて面白い。おそらくボランティアの方だろうか、ていねいに説明をしてくれるので両国の花火大会をまったく知らない人が出かけても、実際の映像資料を織りまぜながらわかりやすい解説で楽しませてくれる。江戸時代の花火は、もちろん大ガネ持ちの遊びで、大橋の下を行き来する屋形舟や屋根舟から、当初は季節を問わず散発的に打ち上げられていた。柳橋芸者のきれいどこをはべらせてドンチャン遊ぶ、そんな様子を橋上から眺めた鋳掛松のような男が、「あれも一生、これも一生、こいつぁ宗旨を変えざぁなるめえ」とグレてしまったのは仕方ないのだろう。
 
 わたしが幼いころまで両国橋西詰めのたもと、カミソリ堤防の下には水上バスの発着所「両国橋」があったはずなのだが、ここから船に乗った記憶がまったくない。おそらく、にごって臭い隅田川Click!の水上バスに、親父は乗りたくなかったのだろう。水上バスなどといわず、親父はいつも「一銭蒸気」あるいは「ポンポン蒸気」と呼んでいた。当時の水質のひどさと悪臭に比べたら、いまの隅田川はなんて「きれい」で「清潔」なのだろう。
 いまでも、両国橋のたもと近くには桟橋が残っているけれど、これは「一銭蒸気」の舟着場などではなく、東京都が管理する緊急災害時の物資水上輸送用の船着場だ。万が一のとき、地上の道路はあてにならず、江戸期と同様に水路が物流のカナメのひとつになると考えているらしい東京都だが、東京オリンピック前後に埋め立てられてしまった多くの運河や河川がいまでも健在だったら、もっと緻密で広範な災害物資の輸送ルート網が確保できただろう。東京オリンピックは、単に景観だけでなく街の安全性をも破壊Click!していったのだ。

■写真上:大橋から眺めた両国広小路。もともと元柳町があったエリアで、右手が神田川の出口である柳橋。左手が江戸期に薬研堀のあった日本橋米沢町で、すずらん通りのある東日本橋。
■写真中上:左は、水上バスの発着所が見える1950年代の両国橋西詰め。右は、現在の同所。
■写真中下:上左は、柳橋から眺めた両国橋。上右は、1956年(昭和31)の両国大花火大会。下は、両国橋東詰めの「両国花火資料館」に展示されている打ち上げ花火のいろいろ。
■写真下:左は、戦前に撮影された黙阿弥『舟打込橋間白浪』(通称:鋳掛松)の舞台で、大橋の上で松五郎を演じるのは2代目・市川左団次。右は、両国広小路の真んまん中から見た両国橋。