怪談には少し季節外れだけれど、この夏、下のオスガキがクラスメートたちといっしょに肝だめしをやった。午後9時ごろに集合して、心霊スポットツアーを10人ぐらいで開催したらしい。11時までに帰ってこいよ・・・と送り出したのだが、午前0時近くになって帰宅。どうせ幽霊姉さんClick!のいる哲学堂か、目白崖線にあまた通うオバケ坂や幽霊坂でも歩いてきたのだろう、と思っていたら違った。なんと、深夜の石神井公園の石神井城趾と三宝池を歩いてきたというのだ。
 石神井城趾と三宝池のウワサは、もちろん下落合あたりまでも井上哲学堂(鎌倉期以降は和田山)の怪談Click!とともに、頻繁に聞こえてきている。練馬区が城趾の丘や土塁、空濠を立入禁止にしたのは遺跡の現状保存と風化防止のためと、若者が肝だめしに集まって騒ぎ近所迷惑だし風紀上も問題があるから・・・ということになっているけれど、実はうつむいて悔し泣きしている鎧武者姿の亡霊数体が昔から多数目撃され、頻繁に報告を受けつづけてきた区役所と警察が、ついに城趾全体を立入禁止にしたものだ・・・というような話が、まことしやかに伝わってきている。なにも存在しないところに、手のこんだ複雑な伝承は生まれない。きっとなにかのキッカケから、このようなエピソードや伝承が語り継がれるようになったのだろう。歴史のある落ち着いた街並みだからこそ、初めてフォークロアとしての怪談話は育まれ、豊かに紡ぎだされていくのだ。
 石神井城は、平安期から室町時代の後期まで長期間にわたり勢力を誇った豊島氏の、練馬城と並ぶ支城のひとつだった。いつごろ築城されたのかは不明らしいが、城の形態からみて現状のものは室町期ではないかと思われる。ところが、室町末期に江戸城※を拠点とする太田道灌の軍勢と、沼袋原や江古田あたりで大規模な合戦を行なって敗れ、板橋氏や赤塚氏などとともに敗走し、途中で立てこもったのが石神井城だったようだ。籠城の持久戦へ持ちこもうとしたらしいが、城はあっけなく陥落。豊島氏は、さらに西へと敗走をつづけることになる。
 ※「江戸城」という名称は、太田道灌が三方を海に囲まれたClick!の付け根に築城した時期と、徳川氏が関東へと帰郷し初期に城をリニューアルした当初は用いられたようだが、江戸期から現在まで地元では「千代田城」または「御城」と呼び馴らされてきた。江戸期から「江戸城」と呼ばれるのは、江戸東京以外の地域からの呼称に多いようだ。だから、本サイトでは一貫して地元・御城下町Click!の呼称・千代田城と記しているが、ここでは室町期の城なので「江戸城」のままとした。
 
 わたしも、オスガキの肝だめしに釣られて、さっそく久々の石神井公園へと出かけてみる。もちろん、夜の肝だめしなどではなく真っ昼間だ。石神井城趾の前に横たわる三宝池は、石神井川の湧水源としても知られているので、いつも神田川水系ばかり眺めているわたしは、たまには別の流れの水系を見たくなったのだ。石神井川の流水は、三宝池から東に向かって流れ出し、板橋地域をへて滝野川や王子Click!あたりで分岐して隅田川(昔は荒川)へと注ぎ、もうひとつの分水流は日暮里から三ノ輪Click!、新吉原Click!、山谷堀へとつづいてやはり隅田川へ注いでいた。もちろん、山谷堀への流れは暗渠化されて現在は存在しないが・・・。
 石神井公園は、美しくてとても気持ちがいい。特に『江戸名所図会』に「五百三十余歩」(実はもっとあるだろう)と書かれた三宝池の周囲を、石神井城趾を眺めながらゆっくりと回遊するのが楽しい。以前とは異なり、池の端の遊歩道がきれいに整備されて、足元が泥だらけになる心配もなくなった。このような湧水流や泉(池)が横たわるところには、必ず出雲の氷川(斐川)の聖域と弁天がセットになって存在するという“お約束”どおり、下落合と同様に氷川明神Click!と弁財天が並んで鎮座している。さっそく両社へお参りするけれど、弁財天の横穴のほうは例によって発光体Click!がすぐにお集りなので、きっとこれが悔し泣きしている鎧武者たちなのかもしれない。(爆!)
 
 石神井城趾は、深さ6mほどに掘られていたといわれる空濠が、ほとんど窪地のような風情になっていて風化がいちじるしい。城趾の随所に見られる土塁も、なだらかな土手のようになって、いまや住宅造成の盛り土のようにさえ見えるところもある。練馬区の地勢や伝承、調査資料類などを詳細に参照していないので不確かだけれど、おそらく三宝池と石神井川水系の流域にも、たくさんの古墳が存在していると思われる。この石神井城趾も、もともと古墳の築山を利用して造成されているのかもしれない。「石神井」という地名そのものが、井戸を掘っていた際に出土した石製の剣に由来しているというのも、その可能性を強く示唆している。
 わたしは、いまだ明るいうちにさっさと引き上げてきたのだけれど、おそらく夜になると界隈の様相はガラリと一変するのかもしれない。周囲はいまや高級住宅街となっているが、石神井公園の特に西側一帯、三宝池と石神井城趾は昔ながらの姿を色濃くとどめている。オスガキによれば、ふだんから霊感の強い友人ふたりが見たものは、悔し泣きする鎧武者でも池に身を投げたという伝説が残る姫君の悲しい姿でもなく、その服装から想像するとここ60~70年の間に亡くなった人たちの霊なのだそうだ。^^; きっと、武蔵野ならではの森と湧水池の美しさに愛着のある人たちが、昔からたくさん住んできた街なのだろう。
 
 豊島氏の伝説に残る、滅びの惜別と哀しみとはいまやあらかた浄化され、三宝池の水面にたっぷりと映える緑の風情は、時間を忘れて見とれてしまうほどだ。神田川の水源である井之頭池や、妙正寺川の湧水池である妙正寺池Click!よりも、石神井公園の三宝池は郊外の野趣をたっぷりと残して、はるかに美しいたたずまいを見せている。

■写真上:池の周囲に遊歩廊が設置されていた、石神井公園西側の三宝池と石神井城趾。
■写真中上:左は、館のあった石神井城趾の土垣。右は、『江戸名所図会』に描かれた三宝池。
■写真中下:多彩な伝説が古くから語り継がれてきた、城趾の北側にある左が殿塚で右が姫塚。
■写真下:左は、もともとは1柱だったと思われるスサノオを主神に奉る石神井の氷川明神。きっと近くには、クシナダヒメが主神の氷川明神もあるだろう。右は、弁財天の祠が奉られていた横穴。早稲田の穴八幡Click!(高田八幡)と同様に、もともとは古墳の玄室へと通う羨道の一部だろうか。