洋画家・松下春雄Click!が「下落合風景」シリーズをスタートさせたのは、佐伯祐三Click!よりも1年半ほど早い、1925年(大正14)の春あたりからだ。この年に入ると、松下は雑司ヶ谷の池袋大原1382番地から下落合1445番地の鎌田方へと転居してきている。佐伯祐三アトリエから、直線距離でわずか100mとちょっとしか離れていない、「八島さんの前通り」を少し西へと入ったあたりだ。松下は、下落合の丘上にある目白文化村Click!のことを一貫して「下落合文化村」とタイトルしているが、造成されてから間もない同住宅街の姿を中心に、数多くの風景作品を残している。
 1925年(大正14)の4月に、出身地である名古屋で開かれた画会「サンサシオン」の第3回展へ、松下は『郊外小景』や『郊外風景』、『うらゝかな風景』の“郊外3景”と呼ばれる風景画を出品しているが、これらは下落合の住居界隈を描いたものだと思われる。下落合1445番地の借家には、洋画家の大澤海蔵や詩人の春山行夫らが同居し、しばらく共同生活を送っていた。当時の松下宅の様子を、春山行夫「茫漠たるイメジ」(1965年)から引用してみよう。なお、文章は『松下春雄作品集』(名古屋画廊/1989年)からの孫引きだ。
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 東京へきたときは、目白の松下君の下宿にはいった。そのへんには無名の若い画家がたくさんいて、ボヘミアンな生活をしていた。…私はしばらくしてその下宿を出て、なんとなく暮らしていた。それからおなじ目白で松下、大沢の両君といっしょに共同生活をしたが、…なにしろ三人のほかに大阪の若い画家も同じ家にいて、夜になると附近にいる画家の誰かがやってくるので、にぎやかな生活だった。たしか我々三人は一室に寝起きしていたように覚えている。…松下君はコーヒーをわかすことがうまく、いつでも、ひとと無駄話をしているときには手を動かしてデッサンをしていた。
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 文中に出てくる下宿に同居していた「大阪の若い画家」とは、いったい誰のことだろうか? 松下が「八島さんの前通り」Click!近くに引っ越してきたとき、東京美術学校を出て間もない佐伯祐三は第1次滞仏中で下落合のアトリエClick!にはいなかったが、ちょっと気になる記述だ。
 
 1925年(大正14)10月の第6回帝展では、第一文化村の外れに設置されていた水道タンクを描いた、『五月野茨を摘む』Click!が早くも入選している。同作についての談話が、同年10月12日付けの「名古屋新聞」に掲載されているけれど、目白文化村を写生したと記者に明言しているので、画面に描かれた非常に背の高い水道タンクは、その様子や地形から第一文化村の南東外れにあった水道タンクに間違いない。先の「作品集」に収録された記事から、松下の言葉を引用してみよう。
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 今年はこの夏に打吹の風景と五月野薔薇を摘む頃の二点を出品しました(ママ)入選した五月野茨を摘む頃の方はこの六月近くの目白の文化村を写生したもので黒い犬が画いてありますが私も打吹の風景よりこの方がいゝように思つてゐたのです(ママ)勉強しやうと思つて居りますがなかなか思うやうに出来ませんので・・・。
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 また、1926年(大正15)の4月になると、松下は「文化村」Click!というキーワードを作品タイトルに盛んに付けはじめ(『文化村附近』など)、またのちに一般名称化する『下落合風景』と題した作品も描いている。これらの作品の初出は、同年の名古屋における「サンサシオン」第4回展においてだった。このあたりから、松下の水彩作品には人物画や静物画よりも風景画が急増し、数多くの「下落合風景」が描かれていくことになる。そして、同年秋の第7回帝展では、下落合のほの暗い森の中を描いたと思われる『木の間より』Click!が、再び入選している。
 
 松下の東京における作品の応募先は、当初から帝展の水彩画部門がメインだったようだ。当時、水彩画部門の審査員には織田一磨Click!や三宅克己Click!がいたのだろうか、「尽きない淋しさと色の薄いはかなさ」(織田「みづゑ」11月号)、「筆も達者、色彩も厭味無く、誠にスラスラと出来上つた、極めて感の佳い画」(三宅「アトリエ」11月号)と、両者とも『木の間より』を激賞している。松下が住んだ下落合には当時、二科や1930年協会(独立美術協会)など、帝展とは一線を画す画家たちが大勢住んでいたはずなのだが、松下が彼らと積極的に交流した形跡はあまり見られない。そんな中で、松下の作品に注目してコメントを寄せている画家に、二科の曾宮一念Click!の名前が見える。中村彝Click!(文展・帝展)や佐伯祐三(二科・1930年協会)のときと同様に、制作の舞台やフィールドにこだわらない、作品のみを見つめていた曾宮の姿勢Click!が感じられて好もしい。
 1928年(昭和3)3月になると、松下春雄は下落合1385番地へ、すなわち目白文化村の第一文化村のすぐ北側にあたる、府営住宅エリアへと引っ越している。ちなみに、名古屋画廊の『松下春雄作品集』では「下落合1-385」と記載されているけれど、明らかに誤りだ。この当時、下落合に丁目は存在しないし、松下が住んでいたのは目白文化村北側の1385番地にあった、画家たちが集まって暮らすアトリエ(?)コミュニティのような一画だった。長野新一Click!をはじめ、甲斐仁代Click!や中出三也Click!なども一時期、ここで暮らしている。おそらく、画家たちを店子に想定し、のちの長崎アトリエ村Click!のようにコンパクトな借家をいくつか建てた大家でもいたのだろう。
 
 佐伯が「下落合風景」シリーズClick!を描きはじめるころ、下落合界隈には空前の建設ラッシュがはじまり、その風景は下落合の中西部ばかりでなく、目白駅周辺も含めて劇的な変貌をとげることになる。閑静な雑木林や谷間が、わずか1~2年のうちにみるみる住宅地化されていく様子を、松下もおそらく目にしているのだろう。彼はほどなく、下落合から杉並町阿佐ヶ谷へ、そして落合町葛ヶ谷(現・西落合)へと、より郊外めざして引っ越すことになる。

■写真上:松下春雄が初めて下落合に住んだ、佐伯アトリエ近く旧・下落合1445番地の現状。
■写真中上:左は、1932年(昭和7)10月に撮影された、白血病で急逝する1年ほど前の松下春雄。右は、名古屋の「サンサシオン」第4回展(1926年)会場で撮られた松下(左端)。背後の壁には、前年の第6回帝展に入選した『五月野茨を摘む』(1925年)が展示されている。
■写真中下:帝展入選作の、左は『五月野茨を摘む』(1925年)、右が『木の間より』(1926年)。
■写真下:ともに油絵を描くようになったあとの作品で、左は第12回帝展で特選となった『花を持つ女』(1931年)、右が第14回帝展で入選した『女と野菜』(1933年)。