下落合の御留山Click!に建っていた、相馬孟胤邸Click!の内部の様子を伝える写真を、将門相馬家のご一族である相馬彰様よりお送りいただいた。すでにここでご紹介しているが、これらの写真は1915年(大正4)の新邸完成時に撮影、制作された『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)に掲載されたものだ。邸内外の写真が撮影された翌年、当主の相馬順胤(ありたね)が逝去し相馬孟胤(たけたね)が跡を継ぐが、1936年(昭和11)2月に孟胤が死去すると、1939年(昭和14)に相馬家は下落合から中野へと転居している。
 『相馬家邸宅写真帖』はB5ヨコサイズの仕様で、表紙には相馬家の家紋である「九曜」が函押しされ、右端が細い紐で綴じられている。表紙をめくると次いで目次が挿入され、すでに当サイトへ掲載させていただいた画像のほかにも、邸内の写真が数葉撮られているのがわかる。今回は、そのうち邸の内部をとらえた貴重な写真をご紹介したい。また、目次のあとに挿入されている、相馬順胤夫妻を中心とした「家族写真」も、もし許可がいただければいずれご紹介したいと考えている。
 

 さて、まずは玄関から入った2階建ての建物の、1階部にあったとみられている「応接室」(①)からだ。建物の和風な外観とは裏腹に、応接室は大理石のマントルピースを備えた完全な洋室となっている。光線の加減から、写真の右手が南と思われるが、まず目を惹かれるのは正面(おそらく東側)の窓にほどこされたステンドグラスだ。わたしは一瞬、昔ながらの図案である“御所車”かとも思ったが違う。拡大してよく見ると、相馬家の「九曜」紋をくずしたようなデザインのステンドグラスなのだ。その窓の右手にある彫刻も気になる。背後になにかを背負っている人物像なので、最初は神田明神Click!の主柱であるオオクニヌシかと思ったけれど、どうも様子が違う。右手に本を開いて読んでいるように見えるので、当時の多くの小学校に置かれていた二宮金次郎だろうか?
 次は、相馬邸母屋の東側にあった「表座敷」の室内(②)だ。こちらは、打って変わって純和風の書院造りとなり、いかにも武家屋敷を想わせる豪壮でシンプルな意匠となっている。そして、天井が非常に高いのが大きな特徴だ。以前、表座敷の建物をご紹介する記事で「寺院建築のような意匠をしている」と書いたけれど、この天井の高さは尋常ではない。まるで寺の本堂のような表座敷の外観と、室内の大きな空間の仕様に、なにか特別なこだわりでもあったのだろうか。床には巨大な山水の軸が架けられているが、おそらく彩色ではなく水墨だろう。

 
 表座敷と南側の「居間」(サンルーム付きの大母屋)とは南北の長い廊下で結ばれていて、1936年(昭和11)の陸軍が撮影した空中写真を見ると、廊下を北から南に向いて右手(西側)が、池や灯籠のある中庭に面していたと思われる。3点めの写真「畳廊下」(③)を見ると、強い光線の射しているのが正面であり、また右手からも光が射しこんでいるので、居間へと抜ける渡り廊下状の建物の内部を、北側から南に向いて撮影したものではないだろうか。畳廊下の左手にも、南北に小部屋が並んでいるらしく、部屋々々の襖が並んで見えている。右側の、おそらく縁側に面した戸はガラス張りで、その向こう側には中庭が見えていると思われる。正面の引き戸を超えて右に曲がると、巨大な居間の建物へと入れるようになっていたのだろう。
 
 高級な部材をふんだんに用いていたと思われる、豪華な邸内をじっくり拝見していると、1939年(昭和14)に相馬邸が解体されたとき、そのまま部材が廃棄されたとは到底考えられない。邸のすべてではないにしても、その一部を転居先の中野へ移築しているか、あるいは誰かが丸ごと建物を買い取り、黒門と同じように、どこかへそのまま移築しているのではないだろうか?
 このとき、翌1940年(昭和15)の新宿中村屋会館の竣工を目前にしていた、オバケ坂Click!上の“タヌキの森”Click!にあった服部建築土木Click!は、近所の相馬邸の解体にまったく関与していなかったのだろうか。前田子爵邸や戸田子爵邸の移築を手がけていた同社が、目前の格好な移築案件を、そのまま黙って見すごしたとは思えないのだが・・・。

■写真上:玄関に接した建物の1階にあったとみられる、完全に洋風な応接間。
■写真中上:上左は、黒門の外から見た応接間のあると思われる建物。上右は、母屋の東側に位置していた表座敷。下は、天井がべらほーに高い表座敷の内部。
■写真中下:上は、表座敷から中庭を経由し南の大母屋である居間へ通じると思われる畳廊下。下左は、サンルーム状の窓が特徴的な居間。下右は、邸内写真の撮影ポイント(想定)。
■写真下:『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)の、表紙(左)と目次(右)。