あけまして、おめでとうございます。本年も、Chinshiko Papalogをよろしくお願い申し上げます。今年は仕事の都合で、ちょっとペースダウンして不定期掲載にしたいと思います。さて、せっかくのお正月なので、東京に伝わるおめでたい人情物語からスタート。^^
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 鮮やかな桃色が美しいシバエビの獲れる芝浦(芝浜)だけれど、いまでもシバエビが獲れつづけていて、神田川のアユと同様に増加傾向にあるのは、あまり知られていない。「昔は芝浦で小エビが獲れたからシバエビというんだよ」・・・という話を聞くけれど、昔というのは高度経済成長の前を指しているようだ。そんなことはない、江戸前※の漁師が70年代までに「漁業補償」で廃業に追いこまれ、漁をする人間がいなくなってしまったから、少しはキレイになった海でシバエビは増えつづけているのだ。汚れてしまった東京湾のイメージが、延々と流されつづけてきたせいだからだろうか、江戸前の魚介類がいつのまにか復活の兆しを見せていることに気づいている人は少ない。
 ※大正期から東京湾を指す、あるいは東京の職能や技術、意匠を指す言葉だが、江戸期には千代田城の城“下町”そのもの、明治期には東京の川で獲れるうなぎClick!のことを指している。
 同じように気になるのは、つい先日もNHKのアナウンサーがニュース番組で言っていたのだけれど、「最近は、めったに東京から富士山が見えなくなりましたから」というのがある。お言葉ですが、東京地方から富士山はしょっちゅう見えてClick!おり、ウソを報道してはいけない。これも、スモッグがひどかった高度経済成長時代に作られた、ニュースでお決まりの常套句なのだろう。東京以外の地域の方が聞いたら、「東京から富士山はよう見えへんのやて」と誤解してしまうじゃないか。当の「現場」にいるのだから、ちゃんと自分の目で見て、確めてから報道してほしい。
 ちなみに、都心の日本気象協会から富士山が見えた日数は、このところ年間でトータル60日前後、つまり2ヶ月前後で、平均すれば6日に一度は必ず見えていることになる。曇りや雨の日、あるいは梅雨どきに見えないのはあたりまえだから、快晴日に見えるこの日数は決して少なくはない。1年の半分は曇りまたは雨だから、富士山の見える晴れの日は、3日に一度ぐらいになるだろう。いまの季節だとほぼ毎日見えており、日数は年々増えてきている。これを、「めったに」とは誰も言わないだろう。都心をやや離れて山手線の外周域(東京西部)へ行けば、富士山はもっと頻繁に見えているにちがいない。60年代から80年代にかけ、年間に数日しか東京から富士山が見えなくなってしまった時代があった。そのときのフレーズを、なんの疑問もなくエンエンと繰り返してきたのだろうか?
 
 さて、シバエビの芝浦だ。伊豆諸島または小笠原諸島へ出かけるか、東京湾クルーズでお茶や食事をするときぐらいしか用のない竹芝桟橋Click!だけれど、ここがまだ「芝浜」と呼ばれていたころの物語。ちなみに、芝浜の海岸線は、現在の東海道線や山手線が走っているあたりにあった。現在は、海岸線が埋め立でずいぶん南に下がってしまっている。おそらく知っている方も多いだろう、三遊亭円朝の人情噺『芝浜の革財布』。歌舞伎では竹芝金作が書き、6代目・尾上菊五郎が演じて当たりをとった世話狂言としても有名だ。のちに、芝居では巖谷真一による新しい台本も書かれている。三遊亭円朝の原作とされることが多いようだけれど、もっと以前から物語「芝浜」として伝わっていた様子もあるので、円朝が江戸期からの伝承を人情噺に仕立てなおした可能性が高い。
 江戸時代、芝浦の街に政五郎という魚屋が住んでいた。ある日、ねぼけた政五郎は魚市場へ早く出かけてしまい、芝浜で二分金がザクザク入った革財布を拾う。生来なまけものの政五郎は、これで魚屋なんぞやめていくらでも酒が飲めらと、さっそく家に帰っては近所の仲間を集めて宴会をし酔いつぶれてしまった。やがて、目がさめて起きあがると、女房が不思議な顔をして「おまいさん、寝言でお祝いお祝いって、いったいなんのお祝いなんだえ?」。政五郎は、芝浜で拾った革財布の一件を話すと、「やだよこの人(しと)、おめでたい夢でもみてたのさ。いいかげんにおしな、さっさと仕事に行っといで」ということで、残ったのは酒代の借金だけとなってしまった。酒の飲みすぎによる痴呆症かもしれないとショックを受けた政五郎は、それ以降、飲むのをピタリとやめ商売に精を出すようになる。
 
 料簡を入れ替えた政五郎は、棒手振(ぼてふり)のしがない魚屋から、街の裏店(うらだな)へ小さな見世を出す魚屋へ、そしてついには表通りに面して見世をはる表店(おもてだな)の大きな魚屋へと成長していく。やがて、正月を迎える準備が整った表店の大晦日、禁酒をつづけてきた政五郎に女房がめずらしく「ご苦労だったねえ」と1本つけた。そして、二分金がぎっしり詰まった革財布を出してきて、「実はね、おまいさん、あれは夢なんかじゃなかったのさ」と告白する。役人にとどけたけれど落とし主が現れないので、革財布は拾い主へ払い下げになっていたのだ。亭主に身を入れて働いてほしい女房が、とっさに打った革財布をめぐる大芝居。酒をすすめる女房に、「おっと、よそうよそうや。この財布が、また夢になるといけねえ」・・・というのが、円朝噺のサゲだ。
 東京港を眺めていると、たまに晴海埠頭へ世界一周クルーズの豪華客船が入港しているのを見かける。一生に一度は乗ってみたい夢のクルーズなのだけれど、二分金がぎっしり詰まった革財布をはたいて空にしても、きっとまだぜんぜん足りないのだろう。

■写真上:海上から眺めた、芝浦の竹芝桟橋ターミナル。
■写真中:左は、目白崖線上から眺めた富士山。右は、戦前の歌舞伎『芝浜の革財布』の舞台で、六代目・尾上菊五郎の政五郎(右)と、三代目・尾上多賀之丞の女房(左)。
■写真下:左は、1950年(昭和25)ごろの竹芝埠頭で、現在のような旅客ターミナル施設はまだない。右は、晴海埠頭のあたりで先ごろ退役した南極観測船「しらせ」が停泊しているのが見える。