子供のころに見た、淀橋浄水場の記憶がうっすらと残っている。おそらく、親父が連れ歩いてくれた幼児期の映像なのだろう。また、浄水場が埋め立てられ都有地だったころの風景も憶えている。さまざまなコンサートやイベントが、この場所を使って行なわれたので記憶は鮮明だ。マイルス・デイビスClick!の復活コンサートも赤土の露出した都有地で行われ、厚生年金会館の追加コンサートともども、わたしはすべてを観ている。寒い日なのに会場には暖かい飲み物がなく、味の素の冷たい栄養ドリンクしか販売しておらず、アタマにきたのを憶えている。でも、都有地のすぐ隣りにあった角筈熊野十二社(つのはずくまのじゅうにそう)の記憶が、まったくないのだ。
 親父のことだから、淀橋浄水場まで行けば必ず十二社には寄っているはずなのだが、わたしの記憶から丸ごとスッポリ欠落している。当時は、いまだかろうじて昔日の風情を漂わせていたはずなのだが、まったく記憶に残らなかったところをみると、子供の目にはたいして印象的に映らなかったか、疲れて眠く朦朧としていたのだろう。そんな記憶の欠落を掘り起こしてみようと、先日、十二社界隈を歩いてきた。昔は、新宿駅東口か大久保駅から延々と歩くしかなかったけれど、いまは大江戸線の西新宿五丁目駅か、都庁前駅で下りれば新宿中央公園をはさんで目と鼻の先だ。
 田山花袋の『東京の三十年』から、明治期の十二社の様子を引用してみよう。
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 東京の下町の人達は皆涼をこうした所に求めた。夏の十二社の繁盛は一通りではなかった。池に臨んだ涼棚はいつも納涼の客で一杯であった。/明治十八、十九年頃までは、入口の所に見事な渓流が奔湍をなしていた。それに架けた小さな橋からのぞくと、夏尚寒しという趣があった。
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 十二社については、実はこのブログで一度取り上げている。面影橋Click!際の南蔵院を舞台にした、三遊亭圓朝の『怪談乳房榎』Click!の一場面に出てくるので、芝居の話とともにご紹介していた。下男の正助が、赤ん坊を十二社大滝のつぼへ投げこんで殺そうとするのだけれど、実行できずに連れ帰って育ててしまい、祟りの因果はめぐりめぐって・・・という筋立ての中で登場している。そんな、おどろおどろしい場面に使われるほど、江戸期の角筈村界隈は人けがなくてさびしい場所だった。中野長者伝説とともに、怪談のフォークロアもたくさん眠っている土地柄なのだ。そして、『怪談乳房榎』の絵師・菱川重信が殺される現場は、これまた鄙びた下落合と上落合の境界、妙正寺川に架かっていたと思われる「落合土橋」(西ノ橋Click!近くか?)の脇なのだ。
 十二社に隣接していた淀橋浄水場は、江戸期には館林藩の秋元家下屋敷があったところだけれど、但馬守を受領していた秋元家についても、田島橋Click!にからめて書いたことがある。また、秋元家の鍛冶場で藩工として作刀していた水心子正秀Click!についてもご紹介しており、新々刀の草分けである彼は、浜町の秋元家中屋敷から淀橋の下屋敷までわざわざ出張して、当時の藩主だった秋元永朝(ながとも)のために刀を打っていた時期もあった。また、吉良家Click!と同様に秋元家でも、藩邸の周辺に住む町民へ無料施療・施薬を行なっており、藩主・秋元永朝が自ら薬学を修めて調合した“テリアカ”Click!と呼ばれる健康薬は、江戸町民の間でも有名だった。
 
 『怪談乳房榎』で赤ん坊を投げこもうとした十二社の大滝は、神田上水に代わる淀橋浄水場が造成された明治期に埋められ、ボート遊びが盛んだった広い池は、現在ではすべてが埋め立てられてしまい面影さえ残っていない。十二社の境内に、小さな人工滝とともに申しわけ程度のせせこましい池があるのみで、往年の雄大な境内を想像することさえむずかしい。戦前は料亭や茶屋が100余りも軒を連ね、芸妓も300名ほどがいたといわれているけれど、当時の風情は皆無だ。
 同社には、下落合の藤稲荷Click!と同様に、幕臣だった蜀山人大田南畝が奉納した水鉢がいまでも残っている。蜀山人は、“おしず”をはじめあちこちに愛妾がいたようなので、落合や角筈はその関係筋からの奉納だろうか。それとも、江戸郊外に点在する社(やしろ)への寄進を繰り返すのは、なにかの願掛けか、あるいは放蕩をやめてマジメに職務を行うようになってからの彼が関わった、幕府の仕事がらみのテーマからだろうか?
 
 1968年(昭和43)まで、十二社大池の一部は残っていたはずなのだが、わたしの脳裏には池の姿が残っていない。十二社とその周辺をひとめぐりしたけれど、どうやら子供のころの記憶を呼びさます糸口を見つけることができなかったようだ。西新宿界隈は、あまりに変貌しすぎているのだ。

■写真上:左は現在の角筈熊野十二社の拝殿で、右は1955年(昭和30)ごろの同殿。
■写真中上:左は、安藤広重が描く『名所江戸百景』第50景より「角筈熊野十二社 俗称十二そう」で夏の情景だ。右は、『怪談乳房榎』の舞台で大滝上の正助は二代目・実川延若。(戦前)
■写真中下:左は、1955年(昭和30)前後に撮影したとみられる十二社に残っていた大池の一部。右は、現在の境内に造られたポンプアップの人工滝と小さな池。
■写真下:左は、1962年(昭和37)に撮影された淀橋浄水場。手前に見えるこんもりした森が十二社で、道を隔てた南西側にだいぶ縮小された大池が写っている。右は、淀橋浄水場跡の現状。