アジアには、東京湾がふたつある。ひとつは、長期間にわたり中国に支配・属国化されつづけ、その後はフランスおよび米国の植民地化(20世紀後半型の「新植民地」化を含む)の反植民地闘争、あるいは民族独立戦争を闘いつづけたベトナムの、ハノイ市前に拡がる東京(トンキン)湾。もうひとつが、100年余前に明治政府が命名した江戸湾の新名称「東京湾」だ。
 ベトナムでは、中国による「文化帝国主義」(学生時代にダグラス・ラミスの著作で知ったワード)の象徴ともいうべき東京(トンキン)という都市名は、漢字による姓名表記の止揚とともにハノイの旧名にもどされている。日本では、たいして疑問も抱かれずに明治期から「東京」という名称がつかわれているけれど、わたしは京(キン/ソウル)という呼称は、少なくとも江戸(原日本語ではetu=エト゜:鼻=岬で、もう少し大きな岬になるとノト゜:顎=半島、広大な半島だとチパ:頭=大半島と呼ばれる)という日本地名が古代から延々とつづいている東日本には、まったく異質で場ちがいなものだと感じるので、当然あまり好きではない。日本本来の地域名が存在するのに、なぜ中国あるいは朝鮮半島に見られる「街名」をかぶせなければならないのか?・・・という本質的な疑問だ。
 いま流行っているらしいロシア文学では、各作品でおなじみのペテルブルグ(ペテログラード:本来はドイツ語に由来)という街名だが、レーニンの死後に付けられた「レニングラード」へ違和感をおぼえつづけた、代々のペテルブルグ市民的な感覚・・・に近いだろうか。余談だが、わたしは現在の東京都知事の言動へ無条件に賛同することは皆無に近いけれど、ほぼ唯一の例外は、この街を広く環状に走る地下鉄に「大江戸Click!(おえど)線」と地域本来の名称をつけたことだ。
 19~20世紀にかけて、ベトナムにおける「東京(トンキン)」に象徴的な課題、つまり民族独立と植民地からの祖国解放、および外国やそのカイライによって押しつけられた文化ではなく、本来の独自文化および地域アイデンティティーの回復に対する闘いは、なぜか下落合と直結することになる。東亜同文会Click!が設立した東京同文書院Click!(目白中学校Click!)がその舞台だ。ベトナム解放戦争が語られるとき、フランスの植民地支配に終止符を打つことになった「ディエンビエンフーの戦い」(1954年)、あるいは米国の「新植民地主義」的な侵略へ本格的な反撃を開始した「テト攻勢」(1968年)あたりから取り上げられることが多い。日本でも1970~80年代にかけ、市民運動や学生運動においてさえ「この闘いを歴史的転換点とする日本のディエンビエンフーへ」なんてスローガンが見られていた。でも、ベトナムの解放闘争はもっと根深く複雑だ。フランスに植民地支配をされる以前、軍事的にも文化的にも支配されつづけてきた中国という存在が、とてつもなく大きい。
 
 下落合の東京同文書院が、中国人留学生ばかりでなくベトナム人留学生も受け入れていたことは知っていたけれど、ファン・ポイ・チャウ(潘佩珠と書かれることが多いが、中国語の表記なのでここではベトナム語のカナ表記にする)らの日本における活動により、将来の革命運動をになう青年たちを数多く受け入れていたことは知らなかった。その貴重な資料をお寄せくださったのは、目白中学校の後裔である中央大学附属高等学校で長く教鞭をとられ、先日、愛知大学Click!へ講師として招かれた保坂治朗様だ。「目白にあった東京同文書院」と題された講演で保坂様が用意された資料から、明治末の東京同文書院におけるベトナム人留学生の様子を見てみよう。
  ●
 潘(佩珠)の意見に動かされた青年志士の間には日本留学を希望する者が続出し、潘が同年(明治38年)10月再び日本に渡来した頃から、窃かに安南を脱出し、その後を追ふて来る者が相次いだ。安南に在る仏蘭西官憲は安南の志士が国外に出るのを厳重に警戒していたから、当時、日本に渡来せんとする青年志士はその脱出に一方ならぬ苦心を費やし・・・(中略) 漸く日本に辿り着いた者は福島安正大将等の斡旋によって振武学校に入学したり、柏原文太郎が副院長であった東京同文書院へ入学したりして、表面、支那留学生の状を装ひつつ修学したのであった。
                (同資料に引用の黒龍会刊『東亜先覚志士記伝』より)
  ●
 
 ファン・ポイ・チャウは当初、日本政府にフランスと戦うための武器供与を申し入れたが、それが無理だとわかると、次の革命世代を育成するための留学生受け入れ要請へと、来日の目的を変更している。このとき、ファンたちの留学運動を支援した日本の政治家には、大隈重信や犬養毅らがいた。革命をめざす青年たちの留学先が、中国支配の旧象徴であり、先達がようやく廃棄したはずの街名「東京(トンキン)」だったのは、なんとも皮肉なことだ。当時、「民族自決権」という概念はいまだ存在しておらず、欧米列強の植民地支配を脱するためには、武力による侵略者の追い出ししか方策がないと考えられていた。早くはレーニンが唱え、戦前の国際連盟でもうたわれることがあったけれど、民族自決権が広く認知されるのは第二次世界大戦後に国際連合が成立し、国連憲章と国連決議(1960年)に盛りこまれてからのことだ。
 1907~08年(明治40~41)にかけ、東京(とうきょう)には約100名のベトナム人留学生が滞在し、フランス政府の圧力による日本政府の取り締まり(見つかれば国外強制退去)を回避するため、中国名を名乗り中国人留学生になりすましていた。だから、東京同文書院では中国からの留学生かベトナムからの留学生か、一瞥するだけでは見分けがつかなかったのだ。当時、下落合の住民たちは、てっきり中国人留学生が勉強しているものとばかり思っていたようだ。同書院における中国人同士のケンカClick!と見えていたものは、ひょっとするとベトナム人留学生と旧支配国である中国人留学生との間の、軋轢や対立も含まれていたのかもしれない。
 
 ベトナムを離れ、日本で祖国の独立解放を夢みて勉学に励む青年たちには悲劇も起きた。ベトナム人留学生のひとりに、陳東風(ベトナム語としての発音は不明)という21歳の青年がいた。彼は東京に留学している多くのベトナム人同志の窮状を見かねて、フランス支配下の祖国にいるカネ持ちの父へ送金支援をするよう手紙を書くが、いくら待っても返事が来ない。財産家である父親が、ベトナムの独立解放のために日本で勉強している留学生たちを見棄てたのだと絶望した彼は、父親に支援を訴える遺書を送ったあと、1908年(明治41)5月に、目白坂沿いの関口にあった目白不動Click!(当時は新長谷寺だが、現在は場所も移って金乗院)で抗議の縊死をとげた。
 東京から出された陳東風の手紙は、ベトナムに着くとフランス官憲の手ですべて握りつぶされ、父親のもとにはただの1通もとどいていなかったのだ。彼の遺体は、近くの雑司ヶ谷霊園に埋葬され、墓標には「同胞志士陳東風之墓」と刻まれている。

■写真上:旧・東京同文書院(目白中学校)の敷地から、目白通り方面を眺めたところ。画面の左手には南北に細長い東側の校舎が、右手には450坪大の小運動場があった。
■写真中上:左は、1910年(明治43)の「早稲田・新井地形図」にみる東京同文書院で、ベトナム人留学生が数多く在籍していたころ。右は、旧・近衛新邸(近衛文麿邸・秀麿邸)の門を内側から撮影したもの。近衛家の敷地に建てられた、東京同文書院(目白中学校)は背後にあたる。
■写真中下:左は、陳東風が眠る雑司ヶ谷霊園。右は、保坂治朗様が撮影の陳東風墓標。
■写真下:本来の「目白」地名であり目白不動があった関口の新長谷寺跡で、陳東風が抗議の縊死をとげたところ。左は境内の門があったあたりを内側から目白坂を向いて、右は目白坂を上って左手の境内跡。椿山の南東斜面にあたり、旧境内の南は神田川に面した崖地(バッケ)だ。