「不動谷は、どうして西へいっちゃったんでしょうねえ」と、明治末から下落合にお住まいになっている家の子孫の方が、かつてわたしにそう言われた。わたしにも、確たる理由がまだつかめないので、彼女へ「おかしいですよね、どうしてなんでしょうね?」としか答えようがなかった。現在の聖母坂をはさんで、東側の屈曲した谷戸を「諏訪谷」、西側の大正期に目白文化村Click!の第三文化村が開かれた谷戸を「不動谷」と、その方の家では呼びならわしてきた。ところが、大正の半ばごろから不動谷は落合小学校(現・落合第一小学校)前の谷間を指すようになり、聖母坂の西側の谷戸には名前がなくなってしまった・・・というのだ。ちなみに、のちに第一文化村が造成される弁天池からつづく落合小学校前の谷間は、代々「前谷戸」と呼ばれていたとのこと。
 余談だが、谷戸の前に拡がる地域だから「前谷戸(まえやと)」と呼ばれた・・・との解釈を、どこかの本か資料で読んだことがあるけれど、だとしたら、通常の地名の付け方からいえば「前谷戸」ではなく「谷戸前(やとまえ)」だろう。事実、都内(目黒など)をはじめ同意の「谷戸前」地名は、関東地方に広く分布している。「前谷戸」は、目前に切れ込んだ谷戸(ヤト゜=脇の下:小谷)そのものを指している谷間の名称だと、わたしは考えている。
 名前がないと困るので、元(?)不動谷周辺の方々は、大正期から聖母病院が建つ以前の丘のことを、突き当たりに住む青柳家Click!にちなんで「青柳ヶ原」、その前に口を開けた“第2の洗い場”Click!があった谷戸を、東側の「諏訪谷」に対して「西ヶ谷」と呼称していたようだ。この呼び名は、聖母病院のフィンデル本館が建設される昭和初期まで活きていたらしい。確かに、明治期の地図に採集された地名を見ると、不動谷という地名は「西ヶ谷」のすぐ左隣りに記載されているが、大正後半の地図になると落合小学校前の谷間へと、300mほど西へ移動している。
 堤康次郎は、目白文化村という名称を採用する以前、下落合で土地の買収を進めていた時分から、一帯の宅地開発の名称を、開発予定地の東側に見つけた小字(こあざ)にちなみ、「不動園」と名づけていた。また、「文化村」や「文化生活」というキーワードの流行とともに、宅地の名称を「目白文化村」に改称すると、今度は箱根土地本社の前に造成した広い庭園へ、堤は改めて「不動園」と名づけている。おそらく、目白文化村へ見学にやってくる顧客に対して、庭園「不動園」は「文化村倶楽部」とともに、住環境アピールの“販促材”として利用されたのだろう。
 開発初期の「不動園」という命名から、「憶えやすい不動園という文化住宅地のネーミングを、より広く浸透させるためには、その名のとおり、住宅地の近くに不動谷がなければならない」・・・ということで、政界に早稲田大学がらみの太いパイプを持っていた堤康次郎は、内務省地理局測量課へ執拗に“修正”の働きかけをしやしなかっただろうか?

 
 この記事は、「不動谷」Click!がテーマではなかった。不動谷の不可解な移動について、いろいろな資料を当たっているときに参照した、1916年(大正5)発行の『東京府豊多摩郡誌』(東京府豊多摩郡役所)に、面白い記述を見つけた。それは、落合村の地勢を説明する項目に、わずか1行足らずで書かれていたのだけれど、以下、そのまま引用してみよう。
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 摺鉢山 下落合字本村八百四十七番地にあり。
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 これを見つけたとき、わたしは長年の疑問が解けてスッキリした気分になった。下落合847番地とは、聖母坂と十三間通り(新目白通り)とがクロスする交差点の東側あたりにあった旧地番だ。わたしの疑問とは、下落合近辺にお住まいの方なら経験があると思うけれど、現在の西武新宿線の下落合駅を降りて聖母坂へ向かおうとすると、なぜかまっすぐには進めない・・・ということ。西ノ橋を渡ると、道が円弧状となって左右に分かれ、左手へ行けば「下落合駅前」と名づけられた交差点へ、右手へ行っても十三間通りへと抜ける。正面に「ホテル山楽」があったから迂回した・・・のではない。(爆!) 江戸時代から、この道筋は変わっていないのだ。西ノ橋から、まっすぐ雑司ヶ谷道(東京府が新たに名づけた現・新井薬師道)へつなげれば、わざわざカーブを描いて遠まわりをしなくても済むのに、なぜかきれいな円弧を描いて古くから道筋がつけられている。
 農地化によって崩される以前、それは江戸期よりもさらに古い時代だと思われるが、ここに大きな「摺鉢山」があったのだ。それは、自然にできた山などではない。「摺鉢山」と名づけられた全国各地の遺跡例が示すように、それは目白崖線の斜面近くに築造された巨大な古墳だったと思われる。おそらく、雑司ヶ谷道が鎌倉期に拓かれたころから、少しずつ墳丘が崩されていったのだろう。論より証拠、言葉よりもビジュアル・・・ということで、各時代の空中写真を観察してみよう。
 
 
 
 「摺鉢山」という地名は、大字下落合につづく小字にも採用されていないので、1916年(大正5)現在では古くから伝承された、“通称”としての地名だったのがわかる。そして、空中写真から観察できる道筋をていねいにたどると、摺鉢状のきれいな円墳・・・というよりは、造り出し(後円部のくびれに設けられた祭祀を行なう台状突起のこと)を備えていそうな、大きな前方後円墳を想起させるのだ。このサイズは、氷川明神の女体宮Click!に想定できる前方後円墳のサイズよりも、はるかに巨大で、はっきりとしたフォルムを残している“サークル”Click!といえるだろう。すなわち、平川(ピラ=崖川:のちの神田上水)に沿って、大きな前方後円墳がわずか200mほどの間隔で、東西にふたつ(丸山Click!と摺鉢山)並んでいた可能性があるのだ。
 偶然かあるいは意図的なのかは判然としないが、下落合駅前に想定できる大きな前方後円墳の前方部(東側)ライン中央には、弁財天の社が古くから奉られていた。つまり、ここに古墳を取り囲む周濠かもしれない池、あるいは湧水流があったことを示唆している。また、時代がさらに下ったナラ時代にも、おそらくいまだ「摺鉢山」が古くからの墳墓として認識されていたのだろう、その北側に位置する崖線の急斜面には、当時に築かれた下落合の横穴式古墳群Click!が展開している。そして、後円部の西端は、元(?)不動谷から流れこむ渓流によって形成された、徳川邸の庭園池Click!があったあたりに接していることになるのだ。おそらく、神田上水沿いに認識されていた“百八塚”Click!の、もっとも規模が大きな墳丘のひとつだったのではないか。

■写真上:落合村大字下落合字本村847番地、通称「摺鉢山」あたりの現状と想定図。
■写真中:上は、『東京府豊多摩郡誌』に添付された「豊多摩全図」の拡大。「不動谷」は村役場(下落合1422番地)から離れた東側に記載されており、第一文化村から落合小学校前へつづく谷には「前谷戸」の地名が見える。下左は1910年(明治43)制作の「早稲田・新井1/10,000地形図」で、下右は1918年(大正7)の同地図。大正の初期から下落合で土地取得をし「不動園」造成をつづけていた堤康次郎は、「不動谷」を当局へ“修正”依頼して移動させやしなかっただろうか。
■写真下:各時代の空中写真にみる、下落合駅前に残る「摺鉢山」(前方後円墳)の痕跡。