1938年(昭和13)に作成された「火保図」を調べていると、「おや?」と思うことが少なくない。佐伯祐三Click!のアトリエClick!と母屋Click!の位置も、その疑問のひとつになった。「火保図」に描かれた佐伯邸は、敷地のやや中央寄りに配置されていて、必然的にアトリエの位置も現状とは異なっているように記載されている。誰がみても、「おや?」なのだ。
 「佐伯公園」が造られたとき、アトリエの位置を動かしてやしないだろうか?・・・、それがこのところ頭にこびりついて離れなかった疑問だ。そもそも、現状の佐伯アトリエはおかしな方角を向いている。中村彝Click!のアトリエClick!のように、ほぼ真北を向いてはいない。微妙な角度で北北東を向いているのだ。また、現在の佐伯公園のアトリエ位置を基準にすると、母屋の南西角が西側の敷地、すなわち納(おさめ)家の敷地へぶつかるか、あるいは突き抜けてしまいそうになる。母屋のスペースが、やたら窮屈なのだ。佐伯公園へ実際に立って観察すると、ますます母屋の位置が敷地ギリギリにまで迫り、どうやって建っていたのか不思議に思える。
 そこで、「火保図」の家屋位置をベースに、1936年(昭和11)当時の陸軍空中写真から現在のGoogleの空中写真にいたるまで、敷地と家屋の位置を重ね合わせてみる。まず、現在のGoogle写真では、「火保図」と比較して明らかにアトリエは4~5mほど「移動」していることになる。戦後すぐのころに撮影された1947年(昭和22)の米軍空中写真は、佐伯邸の屋敷林が濃くて敷地の形状や母屋の位置がはっきりしない。もう少しあとの、特に冬場に撮影された戦後すぐの空中写真を探してみたが、残念ながら鮮明なものは見つからなかった。
 
 ようやく探し当てたのは、佐伯米子が死去した2年後に撮られた1974年(昭和49)の空中写真だ。いまだ母屋は解体されておらず、もとのままの姿を保っている。わたしは、すでに下落合を歩きはじめていたころなので、佐伯邸へ立ち寄っていればまだそれほど傷んでいない母屋が見られたかと思うと残念だ。この写真に、現在のGoogle写真を重ねてみると、意外なことにピタリと一致した。つまり、佐伯アトリエは建築当初から現在の位置に建っていたのであり、まったく動いていないことがわかる。「火保図」の敷地内に描かれた家屋配置の記録が、非常にいい加減に描かれていたのだ。
 でも、すぐに次の新たな疑問が浮かびあがった。なぜ佐伯は、決して狭いとはいえない敷地のスペースに余裕をもって、効率的に自宅やアトリエを配置しなかったのだろうか? まるで、敷地の北西側へ追いつめられるように、妙な位置へ妙な角度で窮屈に家を建てている。東側に、必要以上の広い庭園スペースを設けたことになるのだ。通常、このような四角い敷地であれば、北側のエリアへ母屋やアトリエを建て、南側を庭にしてできるだけ各部屋への日当たりをよくするよう設計するのが自然だろう。事実、佐伯邸の周囲の家々は、そのような設計であり配置となっているものが多い。ところが、佐伯邸は北北東から南南西の中途半端な角度にアトリエや母屋が縮こまるように建築され、東側には広々とした庭が残ることになった。なにか、そこには大きな理由があったのだろう。
 
 「わたくし、鶏舎の臭いがたまりませんのよ」と、結婚したばかりのヴィーナスはんClick!は言いやしなかっただろうか? 1921年(大正10)に、佐伯祐三がアトリエと母屋を建設したとき、南東隣りはいまだ宅地として造成されておらず、古くからの農家がいとなむ養鶏場だった。そこから漂ってくる鶏舎の臭いや騒音を、佐伯はできるだけ避けようとしたのではないか。だから、敷地の形状に対して不自然な位置に家を建て、母屋の南西角が西隣りの敷地境界へかかりそうな設計となってしまった。
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 「わたくし、家が南向きでなくともかまいませんから、鶏舎からできるだけ遠くへ建てていただきたいんですの。あの臭いと鳴き声が、わたくし、たまりませんわ」
 「さよか~」
 「でも、少しは南向きだとうれしいわ。池田の家では、わたくしの部屋はいつも南向きでしたの」
 「ほな、少し南へ傾ければええがな」
 「でも、アトリエが真北を向かなくなってしまってよ」
 「かまへんがな、オンちゃんのためや」
 「まあ、うれしいこと。ついでに、いつかお風呂も付けていただきたいわ」
 「あんじょう、まかしときぃ」
 「祐三さんは、まさか将来、わたくしの嫌いな鶏を飼うClick!なんてことなくてよね?」
 「・・・・・・あ、あのな~」
 ・・・ってなことで、米子はんの言いなりに、佐伯は養鶏場からもっとも離れて遠くなる対角線の位置(敷地の北西側)へ家を建てたのではないかと想像している。たぶん、当たらずといえども遠からずのような気がするのだが。

 
 以前から、採集された人名に誤りClick!の多いことが気になっていたけれど、改めて「火保図」の記載には要注意だと痛感する。一見、敷地や住宅のかたちを正確に写し取っているような印象を受けるが、「火保図」の記録はかなり不正確で、いい加減な描写となっている。

■写真上:来年に内部公開が予定されている、陽射しがまばゆい冬枯れの佐伯アトリエ。
■写真中上:左は、母屋が建っていた玄関あたりの様子で、それぞれアトリエ側のドアはすべて母屋から連続していたもの。(現在はネコが暮らしているわけではない) 右は、「火保図」に描かれた佐伯邸の敷地と家屋配置図。実際の家屋の位置を、北側にずらして赤線で記入してみた。
■写真中下:左は、佐伯邸の門があったあたりで、佐伯公園の正面入口よりもやや南寄りだ。右は、解体直前(1985年)に撮影された佐伯邸の母屋玄関で右手がアトリエ。
■写真下:上は、1925年(大正14)ごろに作られたとみられる南北が逆の「出前地図」。佐伯邸の東隣りに青柳邸が描かれているが実際には南隣りが正確で、東隣りには路地を隔てて養鶏場が接していた。下左は、1974年(昭和49)の空中写真にみる佐伯邸。下右は、Google写真の現状。