前回、下落合駅前にあった古墳ではないかと思われる摺鉢山Click!について記事にしたとき、昔の写真ばかりを掲載して、現状の写真をご紹介してなかったのに気づいた。今回は、前方後円墳の可能性がある「摺鉢山古墳」(仮称)と、近接する地名やその吊り鐘型の形状から、やはり同型の古墳と推定している氷川明神女体宮Click!の「丸山古墳」(仮称)について、現在の様子を見てみよう。いまでは、すでに往古の姿がまるっきり消えてしまったように思えるけれど、当時のフォルムや地勢を想像しながら注意深く観察すると、ところどころにその面影を発見することができる。
 まず、氷川明神(丸山古墳)から見てみよう。いまだ十三間通り(新目白通り)が開通する前の空中写真を参照すると、古墳の外周部を形成していたと思われる周濠、または盛り土のかたちを観察できることは、すでに記事Click!にしている。昭和初期の西武電気鉄道の敷設と、1960年代後半の十三間通り(新目白通り)の開通で、その吊り鐘状のフォルムは南側が60%ほど失われていると思われるが、北側に残された形状、つまり現在の氷川明神の境内とその東部に位置する円弧部では、かろうじて往古の姿を思い描くことができる。
 
 
 当初、わたしが想定していた大きさよりも、吊り鐘のサイズはやや大きいだろうか? 西武電鉄が開設された当初に、旧・下落合駅があったあたりまで、吊り鐘のフォルム=本来の氷川明神境内が入りこんでいたと思われるのだ。そのサイズから想定できる前方後円墳の規模は、おそらく前方の先端からから後円尾部にかけての長さは100~120m前後ではないかと考えられる。当時の古墳サイズとしては、中規模程度のものだろう。
 次に、氷川明神に想定できる「丸山古墳」(仮)よりも、はるかに大規模な「摺鉢山古墳」(仮)を見てみよう。そのサイズがいかに巨大かは、東京23区内では最大サイズであり、芝増上寺境内に鳥居龍蔵Click!が発掘した10数基の円墳(陪墳?)に囲まれるように現存している、芝丸山古墳Click!を超える規模をしめしていることでもうかがえる。後円部の直径だけで、ゆうに100mを超えるサイズを想定できるのだ。前方部も含めると、200m前後の規模であったのではないかと思われる。北側はバッケ(崖)なので、南側半分のみに周濠(半周濠型)が存在したと仮定すれば、全長220~230mほどの規模だろうか? 群馬から栃木にかけて、北関東の上毛野(かみぬけの)地域ではめずらしくない前方後円墳のサイズかもしれないが、南関東、特に東京都内ではこれまで発見されていない最大サイズ(特に後円部)ということになる。
 
 
 
 
 ホテル山楽が建っていた、下落合駅前の後円部の南辺と思われる痕跡は、いまでもハッキリと確認することができる。また、聖母坂の上り口にあたる旧・徳川邸の庭園部に、現在でも興味深い築垣が残っている。大谷石による、大正期に造られたとみられる旧道沿いの石積みだが、これが後円部のカーブに沿って円弧状に築かれているのだ。1936年(昭和11)の空中写真でもその痕跡が確認できるが、補助45号線(聖母坂)が造成される以前、ここには後円部に沿った円弧状の小道が通っていた。また、古墳の北側は目白崖線下のゆるやかな斜面になるので、周濠があったとは考えにくいが、少なくとも西坂下の旧・徳川邸の庭園池あたりから、東側の弁天社のあたりまで、半周濠または堀割があった可能性を指摘できる。
 これらの「古墳」が築造されてから、およそ1,300~1400年後の江戸末期、1854年(嘉永7)に作成された「御府内場末往還其外沿革図書」には、興味深い描写が見られる。この両「古墳」のかたちに沿って、灌漑用水と思われる水路(堀割)が開拓されているのだ。東側の「丸山古墳」(氷川明神境内)には、林泉園あるいは御留山から流れ出る湧水流が、西側の「摺鉢山古墳」には諏訪谷あるいは不動谷から流れ出る湧水流が、古墳の南側を囲むように流れていたのがわかる。「摺鉢山古墳」の東端に位置する弁天社のあたりにも、おそらく泉または湧水流があったのだろう。



 そして、さらに興味深いことには、両「古墳」の外周を流れる田畑の灌漑用水路(堀割)が、少なくとも嘉永年間には東西で結ばれていた・・・という点だ。もともと、なんらかの水流痕あるいは濠跡(土地の窪みかもしれない)のようなものがあった痕跡を、農地の開拓ないしは拡張とともに灌漑用水路として改めて掘削し直し、それを東西でつなぐ水路として活用した可能性が考えられるのだ。その痕跡とは、両「古墳」の南側に刻まれた周濠跡ではなかっただろうか。
 灌漑用水と思われる水流は下落合ばかりでなく、下戸塚(早稲田)あたりから神田上水Click!あるいは妙正寺川Click!沿いの上流にかけ、田畑のいたるところに確認できるけれど、これらのいくつかは“百八塚”Click!の周濠痕跡を活用して造成されているのではないか?

■写真上:斜め上空から眺めた、下落合駅前から聖母坂にかけての大きな「摺鉢山古墳」。
■写真中上:下落合の氷川明神に想定できる、現在の「丸山古墳」周辺の様子。撮影ポイントを記載した空中写真は、1947年(昭和22)にB29が下落合上空で撮影したもの。
■写真中下:下落合駅前から聖母坂下まで想定できる、現在の「摺鉢山古墳」周辺の様子。
■写真下:上は、1854年(嘉永7)に幕府が作成した「御府内場末沿革図書」を元に作られた、『江戸東京重ね地図』(APP/丸善)にみる東の「丸山古墳」(氷川明神)と西の「摺鉢山古墳」の様子。両者の周囲には、灌漑用水路とみられる掘割が描かれている。中は1936年(昭和11)の、下は1955年(昭和30)の空中写真にみる両者のフォルム。「摺鉢山古墳」の後円部に重なるように、もうひとつのサークルが見えるのも興味深い。後円部の崩した土砂を、北側にスライドさせて斜面状に盛った痕跡か、あるいは主墳被葬者の家族・一族または有力家臣を被葬した陪墳跡だろうか?