1927年(昭和2)7月29日、朝鮮から中国を経てシベリア鉄道で二度めのパリへと向かうために、佐伯祐三Click!と米子・弥智子の家族3人は下落合のアトリエをあとにした。途中、京城の親友で画家仲間の山田新一Click!の家へ立ち寄るのだが、そのとき一行は倍の6人になっていた。パリへと向かう佐伯一家には、ひとりの女の子が同行している。佐伯家の長女・杉邨(佐伯)文榮の娘で、パリで洋裁の勉強をしようと留学を考えた、のちにハーピストとなる杉邨ていだ。
 京城の山田新一邸へ立ち寄った6人とは、佐伯一家の3人と杉邨てい、さらに見送りにきた佐伯祐三の兄・祐正と杉邨ていの父・章作だった。杉邨ていは、パリ14区のプールヴァール・デュ・モンパルナス162番地のアトリエClick!で、佐伯一家といっしょに暮らしはじめた。そして、1928年(昭和3)の夏、彼女は佐伯祐三と弥智子の死に遭遇することになる。同年10月31日、佐伯米子がふたりの遺骨を手に日本へ帰国してしまうと、彼女はたったひとりで残されることになった。
 親しい知己が誰もいなくなってしまったパリで、しばらく洋裁の勉強をつづけていたが、そのうち杉邨ていは音楽に強く惹きつけられるようになる。ヴァイオリンを教師について習っていた佐伯から、多大な影響を受けたのかもしれない。パリへ残ってひとりで暮らしていけるほど、もともと彼女はかなり強い性格だったらしく、自分で人生や生活を切り拓いていける女性だったのだろう。やがて、ハープを習いはじめた杉邨ていは、同じくパリに滞在中だった阿部正雄という青年と知り合い、ともにすごすことになる。のちに、推理小説家として知られる久生十蘭だ。
 久生十蘭は、1929年(昭和4)から1933年(昭和8)まで、パリの高等物理学校でレンズ光学を学び、つづけて国立技芸学院で演劇の勉強をしている。もともと演劇熱が強かった彼は、シベリア鉄道で渡仏前には岸田国士Click!に師事し、土方与志のもとで演劇助手をつとめている。筆名の「十蘭」も、当時のフランス演劇界の重鎮だったシャルル・デュランへ師事したことにちなんでいる。フランスで、洋裁の勉強からハープ演奏の習得へと目的を変えた杉邨ていと同様に、彼もレンズ光学からまったく別分野の演劇世界へのめりこんでいる。そんなところにも、ふたりが親しくなる要因があったのかもしれない。ちなみに、久生十蘭の母親も同時期に渡仏し、パリで二度の活花個展を開催したあと、1931年(昭和6)に1年ほどで日本へもどっている。
 
 久生十蘭は帰国した直後、友人の水谷準が編集していた『新青年』に、1934年(昭和9)の1月号から8月号まで小説を、阿部正雄の本名で発表している。おそらく、パリにいたときから構想していた作品なのだろう。1月号の「八人の小悪魔」にはじまり、8月号の「燕尾服の自殺」までつづく一連の小説は、のちに『ノンシャラン道中記』と呼ばれるようになる。1月号の『新青年』で、編集部が「二十世紀の弥次郎兵衛と喜太子が、フランスくんだりまで流れたものと思召せ」というリードを付けているように、『ノンシャラン道中記』はヨーロッパを旅するコン吉とタヌ子(タヌキ嬢)の珍道中を描いた喜劇だ。もちろんコン吉=十蘭で、タヌ子=杉邨ていといわれている。
 わたしは、それほど面白いとは感じないのだけれど、当時の若者たちにはあこがれのヨーロッパを面白おかしく旅するふたりが、なんとも軽妙洒脱でハイカラに感じられたのかもしれない。杉邨ていがモデルとなったタヌ子(タヌキ嬢)は、たとえばこんな感じでコン吉をふりまわしていく。
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 「モシ、モシ」と、タヌをゆすり起こすと、タヌは、寝ぼけがちなる目蓋をしばたたきながら、
 「あら、また巴里なの」と、神秘的なことをいう。
 「いや、ここはマルセーユです。しかしね、あまり寝ると今度は、伊太利の方へ行ってしまうから、ここらで目を覚ましてはどうですか、それにしても夜がふけたとみえて、だいぶ冷えて来たから燃料補給のため、僕はこれから駅食堂(ビュッフェ)へ行ってサンドイッチでも買って来るつもりです。――そちらに何かご注文がありますか」
 「熱いショコラを一杯買ってきたまえ」
 「ショコラを一杯。――もし熱くなかったらどうしますか?」
 「機関車へ行って暖めていらっしゃい」
 「はい、かしこまりました」と、コン吉が、扉を開けて廊下へ出ようとすると(後略)
                                       (同書「謝肉祭の支那服」より)
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 おとなしいコン吉は「道中」、タヌキ嬢の“パシリ”をさせられ、また彼女の奇想な思いつきから次々と“事件”に巻き込まれていくのだけれど、それでもたいして腹を立てずに彼女へしたがってついていく。杉邨ていは、どこか気の強そうな性格が垣間見られるので、阿部正雄(久生十蘭)と杉邨ていのヨーロッパ「道中」も、はたしてそのようなものだったのかもしれない。
 
 杉邨ていは日本へ帰ると、当時はめずらしかったハープ奏者としてデビューすることになり、久生十蘭は帰国後、岸田国士のもとで舞台の演出をしたり、明治大学で文芸科の講師をする一方、本格的に小説へ取り組むことになる。ふたりは、帰国してからも付き合っていたらしい痕跡が見られるが、ついに結婚することはなかった。杉邨ていは1944年(昭和19)、独身のまま死去している。

■写真上:左は、佐伯の実家・光徳寺で第2次渡仏直前に撮られた1927年(昭和2)8月の杉邨てい。彼女の左横には、第2次渡仏直前の佐伯米子と弥智子、そして佐伯祐三が並んで写っている。右は、同年の3月に下落合の佐伯アトリエで撮影された杉邨ていと佐伯祐三。わずか半年たらずのうちに、杉邨ていの表情がずいぶん大人びているのがわかって興味深い。
■写真中:左は、『ノンシャラン道中記』に十蘭自身が描いた挿入イラスト。象形文字は、タヌ子が描いた「バカヤロウ」と「クルクルパー」だ。右は、1946年(昭和21)に発行された「新青年」10月号で、下落合を舞台にした久生十蘭『ハムレット』が掲載されている。
■写真下:左は、ハーピストとなった杉邨てい。右は、1955年(昭和30)ごろの久生十蘭。