いつだったか、日曜の昼間に放送していたTVドキュメンタリーで、雑司ヶ谷・鬼子母神(きしもじん)の境内にある駄菓子屋「上川口屋」さんの、おばさんを主人公にした番組を観た。戦争をくぐり抜け、戦後は母親とともに境内の見世を苦労を重ねて守ってきた・・・というような内容だったと思う。いまのおばさんは13代目の当主、創業230年近くになる江戸期からの老舗だ。
 1781年(安永10/天明元)に飴屋としてスタートしたというから、「上川口屋」は江戸後期から現代までの世相を、鬼子母神の境内からエンエンと見つづけてきたことになる。これほど古い、山手の駄菓子屋さんはきわめて稀有な存在だ。鬼子母神は、加賀・前田家からの厚い信仰もあり、江戸期から寺格もかなり上で数多くの参拝者を集めていた。子育ての神として、いまでも参拝者は途切れることなく、戦後もずっと地域の互助組織「萬人講」が存続してきた。厄除けの「すすきみみずく」とともに、これほど長く親しまれた乃手Click!の神様もめずらしい。
 子供を片っぱしから食べてしまう、カリテイモという困った女神が奉神なのだけれど、釈迦に諭されて改心したあとは、子供の味に似ている柘榴(ざくろ)が大好物のため、ザクロをデザインした寺紋がトレードマークとなっている。その無惨なイメージから、鬼子母神を舞台にした物語や芝居も、やはり昔から悲劇が多いようだ。すぐにも思い出すのが、子供のわたしの午睡タイムClick!と化していた、新派の舞台『残菊物語』だ。初代・水谷八重子Click!と安井昌二のコンビだったと思うが(まさか花柳正太郎だったとは思えない)、いまから思うと夢の中でずいぶんもったいないことをしたものだ。でも、はしゃぎまわりたい盛りの小学生には、新派の舞台は寝るしかない空間だった。
 
 原作は村松梢風で、脚色は巖谷三一の『残菊物語』。主人公の尾上菊之助は、義弟の乳母・お徳に恋してしまい、義父だった5代目・尾上菊五郎にバレて勘当されてしまう。当然、歌舞伎の世界からも追放されて、菊之助はお徳とともにしがない旅役者の一座へ入り、全国を“どさまわり”することになった。でも、落胆する菊之助を見かねたお徳は、みずから身を引いて彼を元の歌舞伎の世界へと押しもどす。帰参した菊之助は名優とうたわれるようになるが、失恋したお徳はひっそり大阪へと身を隠す。尾上菊五郎・菊之助親子が、大阪公演へ華々しく乗りこんだまさに当日、お徳は道頓堀にある侘しい借家の2階で静かに息を引きとる・・・という筋立てだ。ほとんど絵に描いたような新派向けのストーリーだが、菊之助とお徳の物語は実話をベースにしている。
 『残菊物語』で、菊之助とお徳がしめし合わせてひそかに逢引きをするのが、明治期に雑司ヶ谷・鬼子母神の境内にあった茶店という設定だった。もともと、門前ではなく境内に茶店があったかどうかまでは知らないが(江戸東京名所のひとつなので、たぶんあったのだろう)、逢引きするのが飴屋さんでも駄菓子屋さんでも、やはりかっこうがつかない。惚れた男をけな気に支えつづける女と、芝居に貪欲で芸を磨きつづける男との、はかない悲恋がテーマなのだけれど、のちに溝口健二が制作した映画『残菊物語』(1939年)では、男の出世をあと押しするお徳(お得)の、女の意気地がメインテーマとして描かれたらしいが、わたしはこの作品をいまだ観ていない。
 
 鬼子母神は、目白台(清土)に住んでいた山本丹右衛門が、1561年(永禄4)に掘り出した像が縁起だとされるが詳細はわからない。1933年(昭和8)に編纂された『高田町史』から引用してみよう。
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 永禄四年五月十六日、雑司谷の柳下若狭守の下男なる山本丹右衛門と云へる者が、今の清土(三角井出現の處星跡と云ふ)の畑を耕して居たるに、炭頭のやうなもの、鍬の先に懸つたので、取り上げて見るに、仏像に似て居る。携へ帰り、東陽坊(後の大行院)に抵りて、時の住僧なる日性に示したるに、鬼子母天の像と判つたので、同時に納めた。 (同書「神社」より)
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 目白台で発掘された鬼子母神像をめぐり、このあと祟りや怪談話がつづくのだが、キリがないので、それはまた、別の物語。現在、鬼子母神の本堂に安置されている本体は、わずか20cmに満たない小さな銅像のようだけれど、見るからに鬼女のような怖ろしい風貌をしているらしい。
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 鬼子母神の本体は、丈凡そ六寸ばかりの銅像で、頭上の左右には瘤の如き角が二つ出て居り、眼は丸く、口は大きく、面貌体容は全く鬼であると云ふ。其の像の左に円満具足神、右に出世大黒天と十羅刹女の像を安置してある。 (同上)
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 鬼子母神には昔から、散歩がてらもう何度も参詣しているけれど、わたしは残念ながらいまだ本尊を観たことがない。ガブ好きClick!のわたしとしてはぜひ一度、ゆっくり拝観してみたいものだ。

■写真上:江戸の面影を色濃く残す、雑司ヶ谷・鬼子母神の境内と本堂。
■写真中上:左は、1955年(昭和30)ごろの鬼子母神。左手に見えている建物が、江戸期からつづく駄菓子屋「上川口屋」さん。右は、新派の『残菊物語』舞台でお徳の初代・水谷八重子に菊之助が花柳正太郎だが、撮影されたのは戦後の公演だろう。
■写真中下:左は昭和初期の、右は現在の鬼子母神参道に茂るケヤキ並木。
■写真下:左は、昭和初期に撮影された境内にある大イチョウ。右は、その隣りにある武芳稲荷。