中村彝のアトリエについては、これまで中村屋Click!→谷中Click!→下落合Click!と、それぞれ時代ごとに随時ご紹介してきているが、水戸から東京へと転居してきた明治末、早稲田中学校の南側一帯に点在していた、彝を含む画家志望の青年たちの住まいについては、これまでほとんど触れてこなかった。下落合からも近いので、ぶらぶらと探訪してみる。地下鉄早稲田駅を降りて馬場下の交差点から歩いてまわれる、牛込柳町あたりにかけての一帯だ。
 牛込地域の洋画家たちについては、同地に住んだ鶴田吾郎Click!がマップを制作して残している。当時、中村彝は同じ早稲田中学だった鶴田とはまだ知り合っておらず、小学校時代からの友人である野田半三Click!の下宿近くに家を借りて住んでいた。夏目漱石邸(漱石山房)まで記載された、1907年(明治40)ごろの状況を伝える鶴田マップは、なぜか南北が逆だけれど、道筋や位置関係はかなり正確で、町名変更がほとんど行われなかった新宿区の牛込エリアを散策するには、いまでもそのまま通用しそうだ。ただし、早稲田通りも大久保通りもかなり狭隘で、早大正門通りは存在せず、もちろん明治期の水車がまわる「早稲田田圃」のままとなっている。
 中村彝は、水戸から東京市牛込区愛日小学校へ転向して以来、牛込区原町3丁目7番地→豊多摩郡大久保村236番地→(名古屋地方陸軍幼年学校)→牛込区河田町9番地→(療養:千葉県北条湊)→牛込区原町3丁目25番地・・・と、現在の新宿区内を転々としている。彝が野田半三と知り合ったのは、1899年(明治32)に転入した愛日小学校時代だが、鶴田吾郎と知り合うのは千葉県北条湊の療養からもどり、1905年(明治38)11月に原町3丁目25番地へ引っ越したあとのことだ。翌1906年(明治39)3月に、彝は本郷菊坂の白馬会洋画第2研究所へ入所、つづいて夏に千葉県大原で再び療養したあと、同年秋には赤坂溜池の白馬会洋画第1研究所へと転籍し、ここで鶴田吾郎や中原悌二郎Click!と知り合うことになる。


 牛込区原町3丁目25番地の中村彝が住んでいた借家は、専行寺の北側に隣接していた願正寺という小さな寺の境内に建っていたが、すでに寺は現存していない。この家に彝が住んだのはわずか2年余にすぎず、1907年(明治40)12月には荏原郡渋谷村豊沢(現・渋谷区恵比寿4丁目界隈)へと転居している。でも、この期間は、中村彝に鶴田吾郎、野田半三の3人がごく近所に住み、画家をめざして互いに研鑚をつづけた重要な時期にあたる。
 願正寺の借家は、大久保通りから北側へ急激に落ちこんだ斜面の中腹にあった。小学生のころから友人だった、夏目坂筋の大久保通り際に住む野田半三宅とは、歩いて5分ほどの距離だ。いまでも大久保通り沿いには、空襲をまぬがれた大正期から昭和初期の古い建築がところどころに残っている。彝の家から東へ歩いて15分ほどのところ、南榎町に鶴田吾郎は住んでいたが、同じ早稲田中学に通っていたにもかかわらず、まだお互いを知らなかった。中村彝との出会いを、1982年(昭和57)に出版された鶴田吾郎『半世紀の素描』(中央公論美術出版)から引用してみよう。
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 中原(悌二郎)に次いで菊坂の研究所ではもの足りないといって一人また新入生が来た。同じ牛込でも原町に住んでいるというので、研究所の帰りは時々一緒になって歩いた。これが中村彝であって、中原とは違って歩き方も健康的ではなかった。名古屋の幼年学校にいたが肋膜をやったので、軍人志望をあきらめて絵を始めたのだというのだ。中原が野性的であるとすれば中村はインテリの芸術家的気質を現していた。 (同書「絵を始めた頃」より)
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 彝、鶴田、中原のほかに広瀬嘉吉、白山仁太郎、高野正哉、そして野田半三を含めて、ときどき各自の家々へ集まるようになり、いつしかグループのようなものができ上がっていく。この時期、彝は白馬会の研究所へ絵を習いに通うのと同時に、名古屋の幼年学校で習ったフランス語を活かし、印象派の画家をテーマにした原書を読んだり、洋書類に挿入されているヨーロッパの画家作品の模写を繰り返していたようだ。再び、鶴田吾郎の証言を聞こう。
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 中村は初めより色彩感覚が鋭く、これは印象派に共鳴してしかも理論的に解釈して勉強をすすめていた。中村も幼年に入る前に早稲田中学に籍をおいていたことがあり、近くには三宅克己Click!の弟子となっていた野田半三がいた。野田も早稲田中学出身であるところから我々の友人となり、研究会と称して野田の家にも集った。野田は素朴なクリスチャンであって、聖書研究などをすすめたので我々も教会に時々行ってみたりした。 (同上)
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 鶴田吾郎の家は、原町3丁目の彝宅から大久保通りを東進し、旧・私立北辰小学校があった手前の道を左折して、急な坂道をのぼった丘上の南榎町にあった。この丘は、弁天町や山伏町の西側が切り立ったバッケ(崖)状の地形をしており、やはり幽霊坂Click!(オバケ坂)と呼ばれる坂や、長くて傾斜が急な階段坂を現在でも見ることができる。丘上の南北に走る尾根筋の道を、少し右手(東側)へ入りこんだところに、明治期の鶴田吾郎宅は建っていた。
 
 
 中村彝の牛込区原町3丁目時代(1905~1907年)は、黒田清輝が指導するアカデミックな白馬会から、中村不折Click!や満谷国四郎Click!が起ち上げた在野の太平洋画会へと移籍する節目にもあたり、彝の生涯を通じてもっとも夢の多い、心躍る時代だったと思われる。

■写真上:牛込区原町3丁目25番地(現・新宿区原町3丁目)の中村彝旧居跡。
■写真中上:上は、鶴田吾郎が制作した1907年(明治40)ごろの牛込地域マップ。下は、1936年(昭和11)に撮影された同地域の空中写真。ちょうど、早稲田通りが拡幅工事中だ。
■写真中下:牛込地域のあちこちに残る、大正期~昭和初期の近代建築住宅。
■写真下:上左は、夏目坂筋の野田半三旧居跡。上右は、原町3丁目の中村彝旧居跡。下左は、南榎町の鶴田吾郎旧居跡。下右は、大久保通り沿いには急傾斜の坂道が多い。