あまり見かけなくなってしまったけれど、わたしが子供のころ、絵画教室や画塾が街のあちこちにあったように思う。いまでは書道教室はよく見かけるが、自宅で絵画教室を開いている家は少なくなった。わたしの親たちも、なにかひとつぐらいは習いごとを・・・ということで、ピアノ教室と絵画教室が候補にのぼったらしい。「女の子でもないのにピアノ教室てえのはどうも・・・」という親父のひと言で、わたしは絵画教室に通わせられるハメになった。
 小学生のわたしが通っていた絵画教室の先生は、もともと学校で美術教師をしていたのだが、定年退職後に自宅で画塾を開いた。たとえば下落合の大久保作次郎Click!のように、プロの画家が近所の生徒を集めて開くような絵画教室もあるのだが、そのようなケースだと大人だけ、あるいは美術学校への進学希望者のみが対象で、中学生以下の「子供の部」がなかったりする。わたしの絵画教室には、「大人の部」と「子供の部」の双方があり、週末にはおそらく“日曜画家”の方たちなのだろう、大人が画道具を片手に何人か通ってきていた。
 アトリエだったのか居間だったのか、はっきりとは憶えていないのだが、わたしの絵画教室はそこで好きな絵を勝手気ままに描いてよい・・・というやり方だった。なにか課題や画題があるわけではなく、「キミの好きな絵を、好きなだけどんどん描いていいよ」と、先生は壁を指さしながら言った。そう、画用紙やスケッチブックはいっさい使わず、絵はあたり一面の“壁”に描くのだ。アトリエだか居間だかの壁には、一面に大きな厚手の模造紙が貼られ、それは廊下の両側の壁にまでエンエンとつづいていた。つまり、家の壁にいたずら描きするような感覚で、好きな絵を好きなサイズでいくらでも描いていい・・・という教育方法だった。描く道具も、鉛筆から木炭、36色の色鉛筆、クレヨン、クレパス、パステル、水彩絵具・・・と、なんでもそろっていた。
 いつも、家の白い漆喰の壁に、鉛筆でいたずら描きをしては怒られていた子供が、こんな夢のような空間で夢中にならないわけがない。初日から、帰宅時間が1時間以上も超過し、母親が迎えにくる騒ぎになった。絵の先生も、最後までなかなか帰ってくれない新入りの生徒に、「早く夕飯が食べたいんだけどな!」・・・と、どこかで箒ならぬ絵筆を逆さまに(あたりまえか)立てていたかもしれない。わたしは、壁のいたるところに飛行機を飛ばしていたのだ。
 
 絵を描いたあと、その絵を見ながら先生が簡単な批評をしてくれるのだが、「こんな飛行機は、わたしはいままで見たことないですなあ~」と、褒めてるんだか貶してるんだかわからないコメントを、親に話していたのを憶えている。ほんとは、「こんな帰らないオスガキは、わたしはいままで見たことないですなあ~(もうお腹ペコペコだし)」と、言いたかったんじゃなかろうか。以来、わたしは絵画教室に夢中になり、当然のことながら学校の教科よりもはるかに面白いので、勉強や宿題はいっさいやらなくなった。いまから思うと、絵を描いたときに先生がくれたコメントの数々は、既成の表現など気にせず自由に描け・・・という、一貫したメッセージがこめられていたことに気づく。
 先日、吉田隆志様Click!よりご教示いただいた目白文化協会に参加していた海洲正太郎Click!も、下落合の落合中学校のグラウンド近く、三輪邸Click!の斜向かいで絵画教室を開いていた。また、鶴田吾郎Click!が早稲田中学を辞めたあと絵を習いに通っていたのも、牛込弁天町にあった倉田白羊の絵画教室だった。明治から昭和にかけ、誰もが通える街中の画塾は、かなり大きな役割りをはたしていたことに改めて気がつく。1982年(昭和57)に出版された、鶴田吾郎『半世紀の素描』(中央公論美術出版)から引用してみよう。
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 倉田白羊さんは当時二十三、四歳、美術学校を出て上州沼田の図画教師となったが、中学教師をやめて東京に戻り、画家の生活を始めるべく研究所の看板を出したところで、私が先ず最初の弟子入りとなったのである。/画室というものはなく、八畳と玄関、四畳半の茶の間があり、老母の方と奥さん、生まれて間もない赤ちゃんがいた。私はそこの八畳で石膏全身のミロのヴィナスを生まれて初めて木炭紙に木炭で写生した。 (同書「絵を始める」より)
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 鶴田吾郎は、絵を習いながら一度も謝礼を持参しなかったことを、あとあとまで後悔している。
 
 学校の勉強をいっさいしなくなり、「きょうも宿題をやってきませんでした」という紙を担任に持たされて帰宅する、絵画へヲタク的に夢中になりはじめたわたしの姿に、親たちが「マジヤバ」と危機感を募らせたからなのか、その絵画教室は1年ちょっとで辞めさせられてしまった。いまから思うと、惜しいことこの上ないのだけれど、画塾を辞めたからといって別に、教科書を熱心に勉強する子供には、もはや二度ともどらなかった。思うように絵が描けなくなったわたしは、今度は世界じゅうの物語とその挿画に惹かれていくことになる。
 絵画教室の先生の作品を、わたしは一度も拝見したことがなかった。彼は、洋画家・宮芳平Click!の湘南時代の“弟子”(短い期間だったろう)にあたる方で、必然的に先生は中村彝Click!の孫弟子ということにもなる。宮芳平は、下落合の彝アトリエClick!を頻繁に訪問している。小学生時代のわたしもまた、どこかで下落合とつながってしまうのだけれど、あのまま絵画教室へちゃんと通いつづけていたら、いまよりもっと自由なことをしていたような気がするのだ。

■写真上:子供のころにあこがれた、ハイグレードな100色超の油絵具セット。
■写真中:左は、旧・牛込区弁天町にあった倉田白羊の「白羊洋画研究所」跡のあたり。右は、鶴田吾郎が制作した、1907年(明治40)現在の南北が逆な「牛込画家マップ」Click!より。
■写真下:スケッチブックを手に、気持ちのいい場所へ「きょうこそ写生を」なんて出かけたりすると(左)、ボーッとしていつの間にかJAZZが流れる喫茶店(右)へしけこんでたりするのだ。