練馬区小竹町にある、通称「江古田富士」に登ってきた。西武池袋線の江古田駅北側にある浅間社=江古田富士は、江戸期に古墳が整形され富士山の溶岩が墳丘へかぶせられた・・・という伝承が残る史蹟だ。1909年(明治42)に作成された地形図を見ると、北側に石神井川が流れ、数多くの渓谷が南側の斜面へと入りこんだ谷戸地形の、見晴らしのいい尾根上のひとつに江古田富士が、というか元の古墳が築かれていたのがわかる。
 同社の境内のかたちを考慮すると、おそらく早稲田の「高田富士」Click!と同様に、富士塚のベースとなったのは前方後円墳ではないだろうか。北東側の墳丘(後円部)へ、南側ないしは西側にあった古墳の土砂(前方部)を崩して積み上げ、表面に富士の溶岩を敷きつめているのだろう。高田富士は早稲田大学の新校舎建設で崩され、古墳の玄室や羨道、富士の溶岩は現在の水稲荷社本殿の裏へ、山頂の社は甘泉園公園Click!の隣接地に移されているが、江古田富士はほとんど構築当時のままの姿を残し、「長崎富士」Click!と同様に国の重要民俗文化財に指定されている。
 江古田富士へ登ったのは、古墳の痕跡を確めたかったわけではない。長崎・落合地域で隆盛した富士講、「月三講社」Click!の足跡を訪ねてみたくなったのだ。江古田の富士塚は、江戸東京の西北部の広いエリアで活動していた(一派は神田地域でも活動)月三講社が築いたものではなく、練馬を中心に地元で組織されていた小竹丸祓講社(まるはらいこうしゃ)が、幕末も近い1839年(天保10)に造営したものだ。普段は閉鎖されて登れない江古田富士だけれど、浅間社祭礼の2日間は登山ができるようになる。今回のテーマは、近隣の富士講同士で交流が行われ、当時お互いが築いた富士塚を訪れ登攀しているのかどうか?・・・というものだ。

 
 連や講というのは、地付きの人々のみが参加できる比較的閉鎖的な組織であり、連中や講中以外の人たちとは趣味面で、あるいは宗教面であまり交流しないのが常だった。でも、富士講の場合は、江戸府内へ富士塚を築くという大がかりな土木工事をもともなう特殊な講なので、富士山大好き(鎮めのコノハナサクヤヒメ大好き!)という共通項から、「富士塚を造ったよ」と聞けば、居ても立ってもいられず登りに出かけたのではないか・・・と想定できるからだ。また、相互に協力体制が組まれ、富士山の溶岩運びを手伝っていた可能性も考えられる。
 江古田富士に登ってみると、思いのほか高いことがわかる。直径は30mほどなのだが、高度が他の富士塚よりもかなりあるようだ。同様に古墳(円墳か?)の上に築かれた長崎富士よりも、ひとまわりサイズが大きな印象だ。ちょうど北東から南西へと切れこんだ、谷戸の突き当たりの丘上に前方後円墳が築かれ、それが江戸末期に富士塚へ改造された・・・そんな感が強くする。参道を登りはじめると、ほどなく月三講社の石碑を見つけることができた。やはり、長崎・落合側から江古田富士へと、登攀しにやってきていたのだ。おそらく、上落合の浅間社境内にあった円墳改造の落合(大塚or浅間塚)富士、および豊嶋の長崎富士なども同様だろうが、江古田富士が築かれると聞いた地域周辺の富士講は、その構築に協力しているのではないだろうか。
 
 
 長崎・落合(・神田)地域に展開した、規模の大きな富士講である月三講社は、その周辺域にも多少の影響を及ぼしていたにちがいない。富士塚の造営だけでなく、多様な交流や協力関係が成立していたのではないだろうか。講中が富士山からエンエンと背負って運んできた溶岩で、せっかく築いた富士塚が、道路工事やビル建設でいとも簡単に壊されてしまうのを見て、下落合の薬王院に眠る月三講社の創立者・三平忠兵衛は、なにを思っていただろう。当の薬王院にも、また氷川明神社の境内にも、同講社が運んだとみられる富士山の溶岩を見ることができる。
 余談だけれど、1909年(明治42)に制作された江古田富士のある周辺地形図を見ていて、いかにも原日本語(アイヌ語に継承)らしい面白い地名が目についた。現在の地下鉄・有楽町線「新桜台」駅のあるあたりから北側にかけ、宿濕化味(シクジツケミ)という古地名が採集されている。もちろん、これはもともとの地名音へ後世になって近い音の漢字を当てはめたもので、漢字からは意味をなさない。原日本語に置き換えてみると、シク(sik)=「いっぱいの/限界の/てっぺんの」、シツ(situ)=「尾根/丘上」、ケミ(kemi)=「血」、あるいはシクスツ(siksut)=「まなじり/目尻」、ケミ(kemi)=「血」ということで、直訳すると「どん詰まり尾根の血」または「目尻の血」ということになる。目尻のように細く切れこんだ谷戸の突き当たりの丘上に、その昔、赤く紅葉する林でもあったのだろうか。
 

 また、羽根澤や小竹という地名も、いかにもという感じが強くする。パネ(pane)=「水のある所/沢/渓流」で、のちに成立した現日本語の「澤」を付けてしまい、原日本語と現日本語とで二重の意味地名となってしまったのではないか。ちなみに、パネにタ(ta)=「汲む」という動詞が付くと、そのまま「水汲み場」の意味になる。江戸東京では、湾に面したパネ・タ(羽田)の地名がもっとも有名だ。千代田(チ・オタ=煮炊きする浜で、今日的に意訳すると「浜辺のキャンプ場」だろうか)と同様に、古代は海岸べりにあたる潮を含んだ砂地で、田圃などできる土地柄ではない。
 小竹は、小さな竹の林でもあったかな・・・と、のちの漢字からたどると思えてしまうのだけれど、コタン・ケ(kotan-ke)=「村の地」と解釈し、意訳すれば「本村」の意味になるのだろう。

■写真上:1839年(天保10)に小竹丸祓講社が造営した、浅間社・江古田富士の山頂近く。
■写真中上:上は、1909年(明治42)制作の地形図に描かれた江古田富士。下左は、江古田富士の山腹にあった月三講社の石碑。下右は、祭日に開放される江古田富士の登山口。
■写真中下:上左は、溶岩を敷きつめた五合目あたりの参道。上右は、コノハナサクヤヒメが鎮座する山頂の社。下左は、山腹から見た浅間社の本殿。下右は、山腹から望んだ山頂。
■写真下:上左は、浅間社の拝殿。上右は、古墳の土砂を盛り上げたとみられる富士塚の斜面。下は、原日本語と思われる地名が豊富な一帯で、非常に古くから人々が暮らしていたのだろう。