「今度、休日にでもゆっくり探してみよう」と書いたので、家のクローゼットをちょっと念入りに整理していたら、先日、伐折羅大将(ばさらたいしょう)がようやく出てきた。相馬黒光Click!によれば、新薬師寺の十二神将は塑像であるにもかかわらず、「二、三点」の石膏マスクが型取られ、そのせいか関係者にバチが当たったというエピソードが残るいわくつきのものだ。
 わたしが小学生のとき、小遣いを足かけ2年間も貯めて、当時の特殊プラスチックで制作された同像のレプリカを購入したことは、以前の記事Click!にも書いたとおりだ。その後、長い間行方不明になっていたのだけれど、おふくろのクローゼットを整理していて偶然に見つけた。わたしが学生時代、親元から独立して落合地域へとやってきたとき、伐折羅大将は持ってこなかった。だから、しばらくは実家の壁に架けられたままでいたのち、箱に入れられて押入れにでも仕舞われていたのだろう。親父が死去し、おふくろと同居するようになった90年代の半ば、あえて同像を探そうとは考えなかった。今回の“発見”により、およそ30年ぶりの対面ということになる。
 子供心には、同像顔面の剥げ具合までがソックリだと思っていたのだけれど、大人の観察眼で改めて見ると、手描きの剥脱した表現がわざとらしく、実物と比較するとぜんぜん似ていない。表情や全体的な印象はよく似ているのだが、細部がかなり異なっているのがわかる。きっと、40年近く前のレプリカ技術では、これがせいいっぱいだったのだろう。当時は、基本的な型を特殊プラスチックで成形したあとは、ひとつひとつ手作りしていたはずで、表面の塗りも1体1体微妙に異なっていたはずだ。裏面を見ると、まるで遺跡から発掘された茶色い気泡入りの土器のような質感で、これが当時としては成形自在な特殊プラスチックの先端素材だったのだろう。
 
 小学生のとき、わたしは親にせがんで十二神将めぐりをしたことがあった。新薬師寺はもちろん、十二神将像があると聞くと旅行やハイキング、散歩のついでに連れていってもらった。当時は、もっともポピュラーだった新薬師寺の像たちが好きだったのだが、その後さまざまな十二神将像を観るにつれ、鎌倉時代の作品に強く惹かれるようになる。
 目にリアルな水晶を嵌め、うるおいのある睨みをきかす玉眼(ぎょくがん)の技法と豪壮な表現とで、鎌倉期の彫刻が好きになっていった。特に、丹沢山塊の山麓にある日向薬師の十二神将は、中学生になったわたしのフェイバリット12体となる。大山や丹沢への登山口にもあたり、山登りや周囲の温泉郷を訪れるときは、日向薬師へ立ち寄るのが“お約束”のようになっていた。
 
 本尊の薬師如来像は、平安期に制作された鉈彫り(なたぼり)の作品で鎌倉期よりもさらに古い。十二神将像は平安後期から鎌倉初期あたりの作品だが、新薬師寺の同像に比べるとややコンパクトでかわいい。ただし、木彫りの質感による迫力や豪壮さ、躍動感やときにユニークな人間くさいリアルな表情などでは、日向薬師のほうが上まわる出来だと感じる。
 光を当てたときの、憤怒の形相が浮かび上がるのが怖くてうれしくて、わたしは飽きずに12体の像を眺めつづけた。当時の日向薬師の本堂は薄暗く、寺の許可を得て懐中電灯の光を当てなければ、像の表情がよく観察できなかったのだ。現在では宝物館もできて、きっと明るいところで仏像たちをじっくり観察できるようになっているのだろう。さすがに、ナラや京ではありえなかったけれど、いまだそれほど観光地化がされていなかった当時の鎌倉や神奈川県内の寺々には、像を写真に撮らせてくれたところもかなりあった。
 
 およそ30年ぶりに出てきた伐折羅大将、さっそく居間の壁に架けようとしたのだが、こんなコワイ顔は家族にまったくの不評で、居間はもちろんダメ、玄関もダメ、階段や踊り場もダメ、もちろんキッチンもダメ・・・ということで、結局いちばん目立たない、わたしの寝室の足元の壁にひっそりと架けられることになった。寝室には、いつも夜になってからしか入らないので、伐折羅大将をよく観察するには、きっと昔のように懐中電灯を持参しなければならないのだろう。

■写真上:ようやく探しあてた、特殊プラスチック製の実物大レプリカ「伐折羅大将」像。
■写真中上:左は同像で、右は裏面。特殊プラスチックは、まるで土器のような質感や触感だ。
■写真中下:左は、日向薬師のいまだ萱葺き屋根の本堂。右は、日向薬師の十二神将のうちの子神で、北を守護する宮毘羅大将(くびらたいしょう)。同寺からの年賀状より。
■写真下:左は、浄瑠璃寺のものとされる東京国立博物館所蔵の子神(宮毘羅大将)。鎌倉期の作品で、ユーモラスな表情とともに玉眼が美しい。右は、家族から嫌われたうちの伐折羅大将。