わたしが目白崖線とともに、子供時代から好きだった国分寺崖線を久しぶりに散歩してきた。いつも、目白・落合界隈のバッケClick!の道を歩いているのだが、たまには気分を変えて(あまり変わらないか^^;)、国分寺から小金井のハケの道Click!を歩きたくなったのだ。目白崖線と国分寺崖線の地勢はソックリで、まるで双子のような風情だと感じたのは高校時代のころ。
 近郊の別荘地として開発されはじめた歴史も、両地域はとてもよく似ている。それ以来、機会があると散歩をつづけてきているが、1960~70年代の目白崖線の風景が、現在の国分寺崖線に拡がる住宅街の風情・・・といっても言いすぎではないだろう。ハケの斜面のいたるところから泉が湧く様子、「丸山」に象徴される地名の相似や古墳の展開、武蔵野の雑木林が繁る殿ヶ谷戸庭園や滄浪泉園の存在、出雲神や弁財天を奉ったいわれの古い(わからない)社の鎮座、往古から暮らしやすかったのか古代遺跡の散在、もともとは大きな別荘が建ち並んでいた戦前の光景・・・などなど、両地域の共通性を挙げだしたらキリがない。
 散歩は、野川の源流域のひとつである恋ヶ窪の湧水池からスタートしたかったのだが、日立の中央研究所が谷戸の庭園を公開するのは年に二度ということなのであきらめ、国分寺駅を突っ切り南側の殿ヶ谷戸庭園から歩きはじめた。ちなみに、恋ヶ窪の中央研究所の敷地は、中村彝Click!のパトロンだった今村繁三Click!の広大な別荘跡であり、なにやら両地域の登場人物までが似てくるのだ。あまりにも有名な殿ヶ谷戸庭園は、同界隈を広く紹介されているkurakichiさんClick!のサイトをご覧いただくとして、同庭園から東へと向かい野川沿いのハケの道、下落合風に言えばバッケの道へと歩いていくことにする。途中、気になる旧「丸山」Click!地名のエリアも散策する。
 下落合の丸山には、戦前戦後の空中写真からもそれらしい地面の盛り上がりは確認できないが、わたしはその釣鐘状のかたちから氷川明神社の境内Click!そのものを疑っている。国分寺の丸山には、崖線の淵に丸山神社が奉られている。でも、この社はかなり小さく境内や敷地を考慮するよりも、丸山地域の丘陵全体を鎮める象徴的な社のような印象だ。現在、この丘陵地域全体は戦後の住宅が建ち並び、丘上は高低の差はあるにせよ平らに均されている。いや、戦前から丘上は畑地として開墾されているので、もし墳丘があったとしても崩されたのは早い時期だろう。大正末から昭和初期にかけ、鳥居龍蔵Click!が調査にやってきたときには、いまだ大小の墳丘が残っていたものだろうか? 1947年(昭和22)に撮影された、米軍の空中写真を見てみよう。
 
 
 
 国分寺駅の南側上空から撮影されたものと、西側上空から撮影された写真とで、丸山地域の全体を眺めてみる。すると、ほぼ三角形のような形状の丸山エリアの東側に、正円形のコブのような突起がひとつ、戦後まで残されているのがわかる。ほかの地面は、ほとんどが畑地だったらしく、1947年(昭和22)現在では新たな道路が拓かれつつあるので、住宅街としての開発・造成が進行中の姿なのだろう。半球状の突起は、北側の崖線沿いに見えており、その直径は30mほどだろうか。ちょうど江戸後期に富士塚として造成された、小竹町にある江古田富士Click!のベースとなった墳丘(後円部?)とほぼ同サイズだ。もし、これが墳丘だったとして、たったひとつ残った古墳を調査するために、鳥居龍蔵はわざわざ市街地からここへやってくるだろうか? 大正末には半球状の突起が、この丘上や周辺に連なっていたのではないかと想像がふくらむ。
 国分寺の丸山にスペースをとられ、ハケの道の散歩をご紹介する余裕がなくなってきたので、以下ははしょることにする。東京経済大のあたりからハケの道へと入り、貫井神社へ立ち寄る。子供のころに見た同社とは、見違えるほどきれいになっていた。この社は、出雲神のオオナムチ=オオクニヌシClick!とイチキシマヒメClick!(弁天)を奉る古社だけれど、背後の丘陵地帯には八雲社も属社として配されていて、原日本の匂いが非常に濃厚なポイントだ。同社の湧水源には、古墳の玄室から出土したような石板が組み合わされて用いられており、わたしの興味は尽きない。
 
 
 
 さて、ハケの道をどんどん東へとたどろう。滄浪泉園は学生のとき以来だから、およそ30年ぶりだ。大磯の滄浪閣Click!と同じような名称なので、興味が湧いて立ち寄ったのを憶えている。もともとは波多野古渓別荘だったのだが、マンション建設計画を阻止して庭園化されている。樹木が大きく成長し、うっそうとした風情に変わっていたが、赤松が多いのはもともとの植生ではなく庭園だからだろうか。同園の水琴窟Click!はよく整備されていて、音色が大きくて美しくハッキリと聴きとれる。つづいて立ち寄った幡随院には、少なからずガッカリした。もちろん、1940年(昭和15)に浅草から引っ越してきた「お若えのお待ちなせえ」(『鈴が森』)の幡随院長兵衛ゆかりの、あの幡随院だ。わたしが子供のころは、木造の古びた大きな堂が樹木の間に見え隠れし、それなりに風情があったのだけれど、いまは樹木がほとんど伐られ鉄筋コンクリートの堂、しかも立入禁止になっていた。
 幡随院をすぎて小金井街道をわたると、大岡昇平『武蔵野夫人』の舞台となったハケの斜面は目前だ。その昔、「ハケの道」という木製の小さな手作り道標があったのは、この崖線下に通う小路だけだったが、現在では野川沿いの遊歩道も含めて、斜面全体が散歩道として整備され、道標や案内プレートが随所に見られる。小金井市が買収した「はけの森緑地」があちこちに見られ、大きなケヤキやクヌギ、カシ、ムクなどが繁っているけれど、高校生のときに歩いた印象ではもっとうっそうとした樹木が林立し、空が張り出した枝葉で狭く、こもれ陽の道ばかりだった印象がある。やはり、かなりの木々が伐られて宅地化が進行したのだろう。道路はあらかた舗装され、クルマが通ると土ぼこりが立つ道には、もはやほとんどお目にかかれなかった。
 
 
 
 今度の散歩で、1970年代には残っていた萱葺き屋根の家を探したのだけれど、すでに瓦かスレートに葺かれ直されたか、あるいは建て替えられたかでついに見つけることができなかった。下落合から、萱葺き屋根の建物が消えたのは1980年代だから、おそらく小金井でも同じころか、少し遅れてなくなってしまったのだろう。でも、まったく違う地域の街を歩いているにもかかわらず、なんとなく30年以上も前の下落合を歩いているような錯覚をおぼえるのは、懐かしさとともに面白い感覚だと思う。崖線に沿って坂道だらけなのも、どこか身体に馴染んだ地形であり風情なのだろう。

■写真上:国分寺寄りのハケの道で見かけた、大正末か昭和初期の建築と思われる日本家屋。
■写真中上:上左は、いまは日立中央研究所となっている恋ヶ窪の広大な敷地に建っていた今村繁三別荘。今村は、同じ武蔵野の吉祥寺にも広大な別荘を所有していた。上右は、殿ヶ谷戸庭園内に残る岩崎彦弥太の別邸内部。中は、丸山斜面の現状とかわいい丸山神社の祠。下は、1947年(昭和22)の空中写真に見える丸山地域に残された半球状の突起。
■写真中下:上左は、まるで古墳の玄室に用いられた石版を組み合わせたように見える貫井神社の湧水源。上右は、同社背後の丘上に鎮座する八雲社。中は、国分寺側のハケの道の風情。下左は、滄浪泉園にある音色が大きくて美しい水琴窟。下右は、同園の湧水池。
■写真下:小金井側のハケの道沿いに展開する風景。下右は、遊歩道も設置された野川。1970年代はコンクリートの護岸がむき出しで、生活排水の悪臭を放っていたのがウソのような光景だ。