目白の徳川邸といっても、徳川黎明会の現状のお宅ではなく、1968年(昭和43)に八ヶ岳の高原ヒュッテとして移築されてしまった、尾張徳川家19代・徳川義親邸Click!のほうだ。この夏、八ヶ岳へ行かれた小道さんClick!より、邸内も含めた貴重な写真をお送りいただいたのでご紹介したい。ちなみに同邸を設計したのは、第三文化村の吉田博邸Click!と同じく建築家・渡辺仁だ。
 明治期から建てられていた旧・戸田邸Click!(紀州徳川家の姻戚)の跡地Click!へ、1934年(昭和9)に建設された目白・下落合界隈では比較的新しい建築なのだけれど、巨大な規模のお屋敷だったせいか、あるいは徳川家が目白文化協会Click!をはじめ地域の活動に熱心だったせいか、同邸を記憶されている方々も数多い。イギリスの典型的なチューダー様式の、見るからに“西洋館”然とした巨大な建築なのだが、建築材には北海道の樹木がふんだんに使われている。また、戦後は空襲で焼けてしまった女子学習院Click!の校舎や、ベルギー大使館などにも一時使用されていた。
 
 
 
 さて、徳川邸が八ヶ岳へ移築される際に、どのような改築(意匠変更)が行われているのか、一度記事にしてからずっと気になっていた。それが、小道さんからお送りいただいた写真で、ようやく全貌をつかむことができた。結果からいえば、移築された徳川邸は目白にあった当時の南側の屋根の部分を除いて、ほとんどそのままの状態で再建されている。目白の徳川邸は、玄関を西に向けておよそ凹型に建設されていたのだが、現状の高原ヒュッテClick!もまったく同様の意匠をしている。(ただし、建物の向きは異なっているようだ)
 大屋根の切妻の位置や形状もそのままで、建物自体のデザインにほとんど手は入れられていない。ただし、凹型の下の部分、つまり目白に建っていたときは南側建屋の屋根部の形状が変わっている。1947年(昭和22)に米軍が撮影した空中写真を見ると、徳川邸の南側建屋の屋根両面には、それぞれ南面屋根3つに北面屋根2つの、計5つの小さな切妻とともに屋根裏部屋の窓が並んでいるのがわかる。ところが、八ヶ岳高原ヒュッテの同屋根には、これらの切妻がまったく見られない。おそらくホテルにする際、屋根裏部屋をすべて廃止しているのだろう。
 
 
 
 
 
 建物の遠景は、目白にあったほぼ当時のままのように見えるけれど、近寄って撮影された写真を観察すると、外壁の表面に露出している木材や屋根の梁、装飾の木彫りなどにかなりの傷みがきているのが見てとれる。築75年にもなるので仕方がないのかもしれないが、風雨ばかりでなく冬季にみられる積雪の影響も、少なからずあるのだろうか?
 室内の様子も、細かな什器や調度を除いては、ほぼ目白時代と変わっていないのだろう。階段の「山おやじ」の木彫も、北海道に八雲町を開拓したいかにも徳川義親らしいデザインだ。徳川義親が、木彫りのヒグマを北海道土産にしたことについて、キムンカムイ(山の神)を形象化し商売にしていいのか?・・・という議論が、アイヌ民族の間で昔からつづいていることは先述している。スズラン型のシャンデリアとともに、いかにも豪華で落ち着いた雰囲気をかもし出す空間だ。写真を見ているだけで、古い木材の香りが漂ってきそうな風情なのだ。
 

 それぞれの写真が、徳川邸のどのあたりを撮影したものか、目白時代に撮影された同邸のフカン写真を使って観察してみよう。戦前あるいは戦後すぐのころ、同邸を訪れたことのある目白・落合界隈のみなさんには、とても懐かしい写真ではないだろうか。

■写真上:玄関上の大きな切妻で、梁の中央には尾張徳川家の葵紋が浮き彫りにされている。
■写真中上:上は、1947年(昭和22)にB29から撮影された徳川邸。ほぼ真上からとやや西に寄った上空からだが、上右の写真には米軍の整理ネームが書かれ徳川邸がちょうど隠れてしまっている。下は、旧・徳川邸(八ヶ岳高原ヒュッテ)の正面外観と玄関部。
■写真中下:それぞれ、徳川邸の内外観。階段にはキムンカムイの彫刻があり、さまざまな同邸内外の装飾にはアイヌ民族のアツシ(attus:着物)などに見られる模様が採用されているようだ。
■写真下:上は、玄関部の柱と基礎部。下は、目白の徳川邸にみる各撮影ポイント。