子供のころ、「おふくろには内緒」のことがらがずいぶんあった。まず、まっ先に思い浮かぶのが駄菓子の買い食いだ。色とりどりの駄菓子が並ぶ店先は、子供のわたしには宝の山のように思えた。ニッキやハッカ、フルーツなどさまざまな香料が混じりあって漂う店先に立っただけで、えもいわれぬ幸福感に浸れたものだ。親が一緒だと、きちんした店で有名メーカーの菓子は買ってくれたが、駄菓子屋で買い食いすることは、当時の多くの家庭がそうだったように禁止されていた。
 禁止されればされるほど、ことさらやりたくなるのが男の子の心理だ。小遣いがもらえるようになると、さっそく近所に点在していた駄菓子屋へまっすぐに飛んでいった。おそらく、当時発売されていたありとあらゆる駄菓子を、友だちといっしょに頬ばっただろう。ややギャンブル性のあるクジ付き駄菓子へは、性懲りもなくいったいどれほど“挑戦”したことだろうか。でも、駄菓子を食べて満足し上機嫌で帰宅すると、おふくろに「舌を出してごらんなさい」と言われ、たちどころに買い食いがバレてしまうのだ。当時は、いまと違って天然色素など使われておらず、駄菓子の大半は人工着色料が使用されていた。だから、ベロが緑色だったり真っ赤だったり、あるいは真っ青だったりして証拠が残っており、「しまった!」と真っ青になってももう遅かった。
 小学生のころ、よくアルコールも口にした。家にしょっちゅう遊びにくる祖父Click!が、必ず葡萄酒(ワイン)を持参するからだ。そして、早朝に湘南海岸で行われていた地曳きを手伝っては、獲れたての魚を持ち帰り、それをサカナに朝から1杯やるのを楽しみにしていた。ときに、「飲んでみるか?」と、わたしにワインを舐めさせてくれた。祖父が好んで飲んでいたのは赤玉ポートワイン、今日でいうところの甘いデザートワインだ。「お母さんには内緒にな」と、ときどきおふくろの目を盗んでは飲ませてくれた。子供の舌には、甘くて苦い葡萄酒はあまりうまくは感じなかった。
 また、隣家へ遊びに行くと、よく梅酒に氷を入れて飲ませてもらった。隣家には、途中で引っ越してしまったのだけれど、小学校でひとつ下のKくんが住んでいて、おばさんがときどき自家製の梅酒を味見させてくれたのだ。こちらは、ワインとは異なりアルコール度数が高いから、さすがに飲みすぎると酔っ払ってしまう。ある日、わたしは調子に乗って、小さめのコップに1杯の梅酒を空けてしまい、足元が完全に怪しくなってしまった。そのまま家へ帰ろうとするのだが、脚が思うように動かない。路上で転び、玄関で転び、廊下で転んで、とうとうおふくろに真っ赤なゆでダコのような顔をして、“飲んだくれ”ているところを発見された。おふくろは、わたしを猛烈に叱ったあと、隣家へ抗議に行ったのはいうまでもない。小学2年生になったばかり、初夏のころの出来事だ。
 
 おふくろには内緒にしていたことを、こうして少しずつ思い出していくと、改めて祖父との間での内緒ごとが多かったことに気づく。グラマンの機銃弾も、「お母さんには内緒にな」でもらったものだ。撃墜されたB29の、ジュラルミン部品でこしらえた筆立ても欲しかったのだけれど、こちらは祖父が大事にしていてくれそうもなかった。その代わり、祖父の家に伝わる日本刀や槍の穂先は、ずいぶん触らせてくれた。これも、おふくろの目を盗んで、「お母さんには内緒にな」。
 小学校も高学年になると、さすがに宿題の量が多くなる。学校の勉強が大ッキライだったわたしは、これらの宿題をほとんどやっていったためしがない。でも、図画工作や自由研究は別で、好きでやることが多かった。また、おふくろが目を光らせている「夏休み帳」やドリルなどは、しぶしぶやっていくのだけれど、日々出される各教科の宿題はほとんどやらなかった。だから、翌日学校へ行くと必ずうしろへ立たされるか、頭にゲンコをもらうか、よく廊下へ座らされたものだ。「あら、いつも座らされてるのは同じ顔ぶれ!」といって、廊下を歩いていった女教師の顔をいまでも憶えている。そのときは口惜しく感じるのだが、それでつまらない学校の宿題をやるようになるかというと、ぜんぜんならなかった。中学生になっても、宿題を満足にやった憶えがない。
 おふくろに、「宿題は終わったのー?」と訊かれると、「みんな終わったよ~」とか「きょうはないよ~」と答えてたウソが、一気にバレるのが父母面談の日だ。担任いわく、「宿題をほとんどやってきません」、「あら」、「いつもなのです」、「まあ!」、「廊下で座ってる常連なんです」、「そんな・・・」、「なんとかしてください」、「は、はい!」。その日を境に、わたしの信用は地に落ち(前からとうに落ちてるのだが)、しばらく監視がきびしくなるけれど、そのうち再びズルズルとやらなくなっていく。中学生のころは、言ってもムダだと思っていたのか、あまり小言は言われなくなっていた。わたしが勉強を面白く感じはじめたのは、ようやく大学生になってからのことだ。
 そういえばもうひとつ、こっぴどく叱られた「おふくろには内緒」を思い出した。わたしが小学4年生のとき、近所にいじめっ子の中学1年生がいた。当時は、近所の子供ぐるみで遊ぶことが多く、当然、年齢も上下まちまちのグループだった。だから、そんな集団には必ずガキ大将的な存在がいて、それがときに年下の子たちをイジメては楽しむ傾向があった。その日、わたしは原っぱで野球をして遊んでいたところ、大量の砂をかけられてイジメられ、最後にはとうとう中学生と取っ組み合いになってしまった。そのとき、図体も小学生とは比較にならないほど大きな中学生に組み敷かれたわたしは、たまたま原っぱに落ちていたコンクリートブロック片の角で、中学生の頭を思いきりかち割ってしまったのだ。(いまでは素手で闘わなかったのを反省しているが) 顔全体から胸が真っ赤になるほど大量の出血をし、中学生が頭を抱えてもだえているところで、わたしは怖くなり自宅へ逃げ帰った。
 
 当然、「おふくろには内緒」にしていたところ、わたしの衣服に付着していたおびただしい血痕を不審がられ、近所へ聞き込みに出ると「○○ちゃん(わたし)が○○ちゃん(中学生)の脳天をかち割った~!」とタレこむ友だちもいて、すぐに事件が発覚。大目玉をくらうとともに、さっそく中学生の自宅へ謝りに引っぱっていかれた。幸い頭蓋骨に異常はなく、頭皮を10針ほど縫うだけで済んだのだが、人を傷つけたということで、その日は夕飯が抜きだった。この中学生こそ、小雨が降る日に海辺の松林へバッテリーとアンプを持ち出し、しびれるエレキギターのパイプラインをテケテケテケと弾いていて、感電してしびれちゃったりする面白いお兄ちゃんなのだが、それはまた、別の物語。
 こうして思い返してみると、おふくろには内緒にしていても、あとになって大概のことはバレていることに気づく。おそらく、もっといろいろなことがバレていたのだろうが、あえて見て見ぬふり、見すごしてくれていたこともずいぶん多そうだ。親になって、改めて気づくことがたくさんある。

■写真上:小学生時代は、毎日のように通っていた駄菓子屋。
■写真中:左は、祖父がいつも飲んでいた赤玉ポートワインの最初期に制作されたポスター。右は、当時はそこかしこで地曳き網漁が盛んに行われていた湘南海岸。
■写真下:左は、このようなフェンスがあってもよく乗り越えては遊んでいた原っぱ。右は、1937年(昭和12)に撮影された「ユーホー道路」(湘南道路)のめずらしいカラー画像。正面に見えている山が高麗山と湘南平(千畳敷山)で、道の右手に見えているのがよく遊んだクロマツ林。もちろん、わたしが生まれるはるか昔の画像だが、物心つくころの光景はいまだこのような風情だった。

★下落合が舞台のドラマ『さよなら・今日は』Click!の“予告編”、第19回に放映された「おふくろには内緒」です。おそらく、森光子に浅丘ルリ子、大原麗子の3人が共演したのは、この作品が最初で最後ではないかと思います。同作のDVD化を願って・・・。
Part01.mp3(Part01)
Part02.mp3(Part02)
Part03.mp3(Part03)
Part04.mp3(Part04)
Part05.mp3(Part05)
Part06.mp3(Part06)
Part07.mp3(Part07)
Part08.mp3(Part08)
Part09.mp3(Part09)
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