光徳寺とは家同士が親しく往来し、中津尋常小学校に入学したときから佐伯祐三Click!と親密にしていた、同窓生たちの貴重な証言が残されている。深谷三治という方は、中学校も佐伯と同じ北野中学校Click!へ進学している。彼はテニス部に入部し、同じ運動部だったせいか野球部Click!に属していた佐伯の様子も、かなり鮮明に憶えていた。1994年9月20日に発行された、北野中学校の同窓会報「六稜会報」No.28から引用してみよう。
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 彼は高等1年修了後、明治45年北野中学に入学し、僕は翌大正2年に入学した。当時の北野中学は、阪急線を隔てて直線距離200メートル位南にあった。/彼は野球部に、僕はテニス部に入った。彼は、ピッチャーとしては素晴らしい強球(ママ)を投げるかと思うと、時にはホームベースにたたきつけるような暴投もした。バッターとしても大物を飛ばすかと思うと、大きく空振りすることもしばしばあった。(中略)後に聞いたことだが、バッターボックスに立った時、来る球をあれこれとゆっくり考える余裕などはない、ここぞと思った時に全身の力をこめて打つ。絵を描く時も、いろいろ構図を考えた時よりも、急に頭に閃いたインスピレーションにより一気呵成に描いた時の方が快心の作ができたということである。 (深谷三治「佐伯祐三のこと」より)
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 このような、佐伯の少年時代の逸話や証言、身近にいた人々が記録した資料が出てくるたびに、ある書籍に描かれた「佐伯」像が浮き上がっていく。佐伯について、エピソードの“ウラ取り”や取材をすればするほど、その本の「佐伯」像との齟齬は埋まらないばかりか、ますます広がって乖離していくように感じるのだ。佐伯が東京へ出てきて川端画学校へと通いはじめて以来、東京美術学校からパリで死ぬまで親友だった、洋画家・山田新一Click!の証言を聞いてみよう。1980年(昭和55)に出版された、山田新一『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版)からの引用だ。
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 しかし、こんな彼がまったく運動神経のない学生であったかというと、実はそうではない。殊に佐伯は北野中学校時代「ズボ」という渾名で、絵を熱心に描く以外は、勉強も運動もしない、佐伯が野球の選手であったということは嘘で、絶対にしたことはない、と書かれた書物(その著者は佐伯生存中、大変な親友であったように言っているが、最近会った佐伯の妻、米子の妹は、はっきりパリでも見なかったし、下落合時代の交友は全くなかったと断言していた)もあるが、これは思い違いで、勿論、その頃は昨今のようにプロやアマの野球熱の凄い時代に比べようもなかったが、学生野球は全国的に澎湃として湧き起り、ブームとなっていた。 (同書「野球」より)
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 「書かれた書物」とは、1970年(昭和45)刊の阪本勝『佐伯祐三』(日動出版)のことだ。山田新一は、『素顔の佐伯祐三』の後半でもパリで佐伯が死ぬ直前の様子やエピソードについて、阪本の同書を名指しで明らかに誤っていると指摘している。山田は、佐伯が死ぬまで当のパリの“現場”で一緒にいたが、阪本は下落合でもパリでも、佐伯の周囲にいた事実をほとんど目撃されてもいなければ、また周囲へ「佐伯の親友」という印象も残していない。
 
 このほかにも、佐伯の身近にいたいろいろな方の証言や、残された資料類をていねいに見ていくと、阪本の記述はどこかが少しずつズレており、ときにはかなりおかしいと感じる。すでに、このサイトでも触れているClick!けれど、1926~27年(大正15~昭和2)現在の目白・下落合界隈の描写も、まったくこの地域や“現場”を知らないとしか思えない見当はずれな記述を繰り返し、「?」マークだらけになってしまうほどの錯誤が見うけられる。この地域の、基本的な知識さえ持ち合わせているとは思えない阪本が語る『下落合風景』Click!は、当時の実景を見たことのない(写真や資料類でしか知らない)わたしでさえ、大きな違和感を感じる内容となっている。
 阪本勝は、北野中学で佐伯と同期(30期)だった。(確かに同窓会名簿にも掲載されている) 帝大に通っていたときは、ほんの一時的にせよ上落合に「下宿」していたのかもしれない。また、佐伯が下落合にアトリエを建てる際、同期のよしみでその様子を見物に行っているのかもしれない。しかしながら、佐伯の「親友」となったのは、彼がパリで死去したのちのことではないか?
 念のため、阪本勝『佐伯祐三』の初版から引用してみよう。なぜ“初版”かというと、同書は頻繁に改訂が行われ、そのたびに記述や掲載図版が変わっているからだ。
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 私は東大在学中、転々と下宿をかえたが、一時上落合で自炊生活をしていた。自炊生活といっても男一人でできるものではなく、だれかとの共同生活を必要とした。その相手は、仙台二高の先輩で、現在同志社大学総長の住谷悦治君の実弟、住谷磐根だった。彼は私よりもっと若い画家だったが、人柄のよい人物だったから、仲よく自炊生活をしたものである。ところがわが家の近所に佐伯が家庭をもったときいて驚いた。 (同書「新家庭」より)
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 「東大卒」と「兵庫県知事」、そして「佐伯の親友」をあちこちで連発するこの人物を、佐伯の親友・山田新一が強い違和感やいかがわしさとともにウサン臭く感じたように、下落合で佐伯の足跡をできるだけ丹念にたどろうとしているわたしもまた、まったく同様の感覚をおぼえるのだ。
 次回、記事にする予定でいるけれど、明治末から大正期を通じて関西野球界Click!は、「佐伯」選手だらけだったことがあった。もし、佐伯祐三の近くに身をおいていたとしたら、市岡中学から早稲田大学に進学したもっとも有名な「佐伯」選手(当時、関西の青少年たちにはヒーローだったはずで、戦後は全国高等学校野球大会の会長を長くつとめている)、対戦相手の平安中学にもいた同世代の「佐伯」選手、さらには野球部のキャプテンをつとめた佐伯祐三が卒業したあと、北野中学にさえ登場してくるもうひとりの「佐伯」選手と、この印象的な野球界の状況をまったく知らなかったらしい阪本は、いったいどの位置にいて野球好きな佐伯の「親友」だったというのだろう?

■写真上:カフェ杏奴でカレーを食べる佐伯一家・・・と書いても不自然には感じられない、非常にリアルなスナップ写真。第2次渡仏時にモランのホテルで食事をする佐伯祐三と米子、弥智子。
■写真中:左は、1980年(昭和55)ごろにパリで撮影されたらしい山田新一。右は、山田新一が池袋1125番地に住んだころ、佐伯祐三が大阪中津から書いた手紙。
■写真下:左は、山田新一が書いた『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版/1980年)。右は、佐伯伝としてよく読まれているらしい阪本勝『佐伯祐三』(日動出版/1970年)。下落合で佐伯を追いかけているわたしは、同書が不可解でしかたがない。