中村彝Click!の作品をめぐり、地元・下落合の視座からとらえるといくつかの錯誤が見られるので、その課題をちょっと整理してみたい。まず、『目白の冬』Click!に描かれた建物が、“もとゆい工場”だと規定されたのは、どのような根拠をもとに、いつごろ誰の手によってなのだろうか?
 手元の書籍や図録をさかのぼって参照すると、ずいぶん以前から『目白の冬』の建物=“もとゆい工場”と規定されているのがわかる。特に、図録などの巻末に収録された年譜の断定表現などでは顕著だ。たとえば、その記載例を代表的な図録の「1919年(大正8)」の項目から引用してみよう。
■「歿後六十年記念/中村彝展」図録(三重県立美術館・他/1984年)
 12月,「雉子の静物」12号を,27日から31日にかけて描く。同月,「静物」2点(49.2×44.5
 および15号),更に,画室裏のもとゆい工場を12号(「目白の冬」)に描く。
■「中村彝の全貌展」図録(茨城県近代美術館・他/2003年)
 12月 晴れた日の午前中は毎日、画室裏のもとゆい工場(「目白の冬」)を12号に、午後と曇天
 の日はアトリエで「静物」10号を描く。
 下落合にお住まいの方なら、『目白の冬』のメーヤー館が「なんで“もとゆい工場”になっちゃうんだい?」と、すぐにも疑問に思われる記述だ。もとゆい工場=一吉元結製造工場は、中村彝が描いた『雪の朝』Click!の正面に描かれている、いかにも当時の中小工場らしい建物であり、パステル画と思われる降雪後の『雪の朝』とは別に、彝は晴れた日の午前中を選び、12号のキャンバスに同工場を油彩で描いているらしいことは、すでに記述したとおりだ。そのような油彩作品を、わたしはいまだ目にしたことがないので戦災で焼けてしまったか、あるいはどこかに個人蔵で現存しているのかもしれない。ちなみに『目白の冬』の解説を、「中村彝の全貌展」図録から引用してみよう。
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 (前略)後年になるほど風景画はきわめて少なくなるが、大正8(1919)年の暮れ頃、アトリエの裏手にある「もとゆい工場」の風景が描かれたことが知られている。この作品には、デッサン(no.93)の他に、小品の試作も試みられていて、彝の力の入れようが知れる。「もとゆい(元結い)」とは、髪を束ねるための細い緒のことだが、中央奧に見える建物がその工場のことかもしれない。
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 年譜の断定調とはやや異なり、「かもしれない」としているので救いがあるのだけれど、下落合の住民のみなさんが読んだらクビを傾げて、「ウーーーム・・・」と、うなってしまう解説だ。


 『目白の冬』に描かれている建物は、中央がヴォーリズClick!が設計して1912年(明治45)に建設された落合福音教会(のち目白福音教会→目白教会)の宣教師館(メーヤー館)Click!であり、右手にチラリと見えているのが小島善太郎Click!も大正初期に写生したと思われる、当初は聖書を学ぶ学院、つづいて一時期は英語学校、そして昭和初期からは教会に滞在する牧師たちの宿泊施設として使われたとみられ、1944年(昭和19)の目白通り沿いで行われた建物疎開Click!により解体されてしまったと思われる、同じく1912年(明治45)建設の教会施設だ。
★その後、目白通り沿いの建物疎開は、1945年(昭和20)4月2日から5月17日までの、いずれかの時期に行われているのが判明Click!している。
おそらく、中村彝が新潟県柏崎の洲崎義郎Click!あてに出した、1919年(大正8)の(1)2月14日の手紙(『芸術の無限感』所収)で以下のように書いていることから、メーヤー館を“もとゆい工場”とする錯覚が生じたのではないか。
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 今は毎日裏の「もとゆひ工場」を十二号に描いて居ます。そして午後と曇り日とは、画室で十号に静物を描いて居ます。二枚ともあと一二回で完成する筈になつて居ますから、今度いらしたら是非批評して戴きます。 (「大正八年<十>二月十四日」洲崎義郎あて書簡より)
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 もとゆい工場を描いていたキャンバスが12号サイズであり、風景画である『目白の冬』のサイズとたまたま一致していたがために起きた錯誤が端緒となったのだろう。こうして、『目白の冬』は“もとゆい工場”作品という規定がエンエンとつづくことになってしまったらしい。でも、上記の図録類が作成されたとき、メーヤー館は千葉への移築前Click!で、いまだ下落合の彝アトリエ裏に現存しており、少しでもアトリエ周辺を取材調査していれば、『目白の冬』の画像をご近所の人に見せて「この建物はなんですか?」と訊ねてさえいれば、「ああ、これ、そこのメーヤー館だよ。ここから歩いて1分足らず」・・・と、すぐにも判明したはずなのだ。尾崎翠Click!の旧居跡Click!の記事でも書いたけれど、なぜ現場での“ウラ取り”をしないで、机上の紙資料だけで規定してしまうのだろうか?
 
 そして、同作をめぐる課題はこれだけにとどまらない。なぜ、『目白の冬』は1919年(大正8)の作品と、途中から制作年が“変節”してしまっているのだろうか? 『目白の冬』は、『芸術の無限感』Click!(岩波書店/1926年)にもあるとおり、1920年(大正9)の作品のはずであり(柏崎での個展を考えると、おそらく同年の早い時期の仕上げ)、1919年(大正8)ではなかったはずだ。また、『芸術の無限感』と同時に、ほぼ同じ編集メンバーによって作成された『中村彝作品集』Click!(中村彝作品集刊行会/1924年編集)でも、また戦前戦後を通じた美術評論(たとえば1950年代の森口多里論文など)でも、同作は1920年(大正9)制作とされていやしなかっただろうか。上記ふたつの展覧会図録とは異なり、『目白の冬』を当初のとおり、1920年(大正9)の作であるとする図録も存在している。
■「中村彝・中原悌二郎と友人たち」展図録(茨城県近代美術館/1989年)
 (1920年/大正9年項目) 11月 「泉のほとり」(no.53=N180)を制作。柏崎で個展。その他、
 この年「目白の冬」(N179)を制作。
 ある日、中村彝の研究者のどなたかが『芸術の無限感』を読んでいて、1919年(大正8)の(1)2月14日付け洲崎義郎あての手紙に着目した。そこには、12号キャンバスに画室裏の「もとゆひ工場」を描いていると記されてあった。アトリエ周辺を描いたとみられる同サイズの12号作品に、たまたま素描も残る『目白の冬』という油彩画があった。だから、そこに描かれている建物は「もとゆひ工場」だと、下落合の現場をまったく調査も確認もせずに規定した。でも、『芸術の無限感』をはじめ当時からつづく資料には、『目白の冬』は1920年(大正9)に制作されたと明記されている。そこで、彝の手紙による具体的な「証拠」がある以上、『芸術の無限感』の記録や他の資料の記述はなにかの「勘違い」で、『目白の冬』は彝の手紙にも書かれているとおり、1919年(大正8)の暮れに描かれたものでなければならず、同作の建物は「もとゆひ工場」でなければならない。これからは、同作の制作時期を1919年(大正8)12月とし、年譜にも当該項目に同作を規定しよう・・・・・・。

 このサイトでは何度も書いたことだけれど、同じ誤りが繰り返し見つかるので、改めてもう一度書きとめておきたい。あるテーマをめぐる事件あるいは史的エピソードは、研究室や資料室の書架や机上で起きているのではなく、その“現場”で起きているのだ。ひょっとすると、目白駅を出たところにある古い商店の1軒で、さっそく『目白の冬』の画像を取り出して、「この建物はどこいらへんにありますかね?」と訊ねていたら、「ここから西へ、7~8分ぐらい歩くかな。ピーコックストアの真裏だね」と親切に地図を描いてくれて、すでに存在しなかった一吉元結製造工場ではなく、日本聖書神学校(旧・目白福音教会宣教師館=メーヤー館)への道案内をしてくれたかもしれないのだ。

■写真上:左が、1920年(大正9)の早い時期に制作された思われる、中村彝『目白の冬』(部分)に描かれた目白福音教会宣教師館(通称:メーヤー館)。右は、1919年(大正8)12月の降雪後の晴れた日に制作されたとみられる、中村彝『雪の朝』(部分)に描かれた画室裏の一吉元結製造工場。
■写真中上:上は、「歿後六十年記念/中村彝展」図録(三重県立美術館・他/1984年)の年譜表現。下は、「中村彝の全貌展」図録(茨城県近代美術館・他/2003年)の年譜表現。ともに、『目白の冬』は1919年(大正8)に制作されたと規定されてしまっている。
■写真中下:左は、「中村彝の全貌展」図録(茨城県近代美術館・他/2003年)に掲載された『目白の冬』の制作年キャプション。右は、1926年(大正15)に岩波書店から出版された中村彝『芸術の無限感』(初版)の巻末に収められた、「主要作品年代表」の『目白の冬』制作年。本書をはじめ、戦前戦後を通じての同作の制作年は、1920年(大正9)のはずだったのだが・・・。
■写真下:当初のとおり、1920年(大正9)の制作年をそのまま踏襲している、「中村彝・中原悌二郎と友人たち」展図録(茨城県近代美術館/1989年)の、いまや稀少な年譜表現。