2007年に文藝春秋から出版された、小林信彦Click!の『日本橋バビロン』を面白く読んだ。わたしが実際に目撃し、知っている時代は物心がついた1960年代も後半、つまり本書では最終章あたりに登場してくる東日本橋時代なのだが、一度も目にしたことのない戦中や戦前の情景でも、どこか懐かしく感じるのは、親父にさんざん話Click!を聞かされて育ったからだろう。
 すずらん通りClick!の小林家、江戸期からの老舗和菓子店・立花屋さんがなぜ「立花」なのか、本書で初めて知った。同家の家紋が、「橘」だったのだ。「橘」家紋は、「丸に橘」でも「亀甲に橘」でも、また「五瓜の橘」でもなく、シンプルな「橘」そのものだったようだ。本書の上品な濃紺の装丁にも、「橘」が淡いブルーグレイで描かれている。この「橘」家紋では、地域性とからめて面白い現象が見られる。実は、わたしの家の家紋もたどれる限り、江戸期から「丸に橘」なのだ。
 日本橋界隈の寺や、川向こうの本所・深川の墓地を歩くと、やたら「橘」家紋が多いことに気づかれた方はいるだろうか? ただの「橘」もあれば、「丸に橘」「亀甲橘」「向かい橘」「鐶(たまき)橘」「五瓜橘」・・・といろいろなのだけれど、中には「橘」マークだらけの墓地さえある。代々の先祖が眠る、うちの深川の墓地でも「橘」家紋がとても目につく。そして、それらの多くが江戸期から日本橋地域、戦前では日本橋区(現・中央区の一部)と呼ばれた地域で暮らしてきた人々の墓のようだ。江戸時代のどこかで、立花屋さんは享保年間、うちは寛永年間なのだが、下町Click!の間で「橘」紋様を家紋にする大流行があったのではないだろうか?
 
 柳橋Click!の川舟料理屋(井筒屋)で毎年、舟遊び会を開いてきた柳派(落語家の柳家一門Click!)だが、なぜ川が汚れて異臭がたちこめ、「金属がどんどん変色して腐食する」と言われ、大川(隅田川)Click!の汚濁が最悪Click!だった60年代から70年代にかけても、頑固に川遊びをやめなかったのかが本書の記述でわかったような気がする。演芸というと、いまや(というか戦前からだろう)浅草か上野と相場はあらかた決まっていたのに、またわたしもそのような感覚でいたのに、本書には落語家の言葉として「あたしは親父にね、浅草で終っちゃいけねえ、日本橋に出ていかなきゃ駄目だ。と何度も言われたものです」という証言が収録されている。現在では、たいして寄席の数もない地域なのに、落語家にとっての「日本橋」は特別な意味があったのだ。
 親父が話してくれていたエピソードと合致しているのが、パンと牛乳を売る千代田小学校近くの「太田ミルクホール」だ。小学校の弁当など作らなかった祖母Click!は、1日に50銭銀貨Click!(当時としては大金だったろう)を1枚握らせて、これで1日なんとかすごしといで・・・と(遊びに)忙しかった家を追い出した。太田ミルクホールは、「太田牛乳」が経営していた昼食向けにパンを売る店で、健全なミルクホールだ。ところが、親父は違う「ミルクホール」Click!にも出入りしていたらしく、女給さんに宿題を見てもらっていたなどと、のちに不埒なことも証言している。地域のつながりが色濃く、みなどこか顔馴染みで気心が知れていた時代だったから、特別に許されていたことなのだろう。
 
 
 小林信彦と下落合が、あちこちで繋がっているのも面白い。すずらん通りの大川寄り角地に建っていたミツワ石鹸Click!の社長Click!との交流も興味深いが、小林の父親が入院して亡くなるのが当時の「目白の病院」すなわち聖母病院Click!だったのも、下落合と東日本橋との因縁を感じてしまう。
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 ----電話をして、目白の病院に向う途上の風景は歪み、歩いている実感が奇妙なほど欠如した彎曲した道を走ると、目まいが続き、両側の家が私めがけて吸い寄せられてくる。(どうして、こんな目に、あわなきゃ、ならないんだ。おやじも、おれたちも、なにも、悪いこと、してないのに!)/深夜の病院に駈け込み、息を弾ませている私を、待ち受けていた初老の医師は興味深げに見た。/「新潟の叔父様からも連絡を貰いました。たまたま、当直で良かった」(中略)/六月二十三日は雨だった。/午前六時五分に父は永眠した。半通夜、告別式は翌日だった。/ミツワ石鹸の社長が足を運んでくれた上に、「あたくし、戦前のおたくの茶通が好きでした」と小声で私に言った。私は涙を浮かべたかも知れない。 (同書「第四部 崩れる」より)
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 聖母病院の担当だった「初老の医師」は、大磯Click!から通ってくる医者だった。
 
 わたしは、故郷の東日本橋と現住所の下落合とが直結するラインとして、神田川(水源から大堰のある関口までは御留川=神田上水Click!、関口から飯田橋までは江戸川Click!で、東京オリンピックの翌々年1966年に神田川で正式に統一された)が気になり、「気になる神田川」シリーズとして少しずつ川沿いの風景を拾ってきた。でも、人と人との交流や重なりも、ていねいに拾っていけばもっとたくさんありそうな様子が垣間見える。大江戸を代表する下町の日本橋界隈と、東京の大正期以降では有数な乃手の目白・落合界隈と、今度はどのような物語で結ばれてゆくのか、とても楽しみだ。

■写真上:2007年に出版された、小林信彦『日本橋バビロン』(新潮社)の表紙カバー。
■写真中上:左は、本書の中表紙に描かれたというよりは、藍で染め抜かれたと表現したほうがピッタリな「橘」家紋。右は、神田川の出口に架かる柳橋から眺めた両国橋。
■写真中下:上左は、かろうじて残る「すずらん通り」のプレート。上右は、門前でべったら市Click!が立って賑わった薬研堀不動。下左は、両国橋Click!の「地球儀」橋柱。下右は、本書にも登場する「鳥安」Click!で、戦前のわが家は雑煮Click!用の鴨肉は、この料理屋で分けてもらっていた。
■写真下:左は、三越近くのビル上から日本橋本石町(金座→日本銀行)をのぞいてみる。右は、日本橋通油町Click!の商店が少なくなった通りで、左手が長谷川時雨Click!の生家跡。