このサイトでは、過去にたくさんの地図(地形図)を活用してきている。それらの地図に限らず、日本で作成される地図類に記載された、すべての等高線や標高数値は、ひとつの水準原点標を基準にして測量されていったものだ。明治期に、陸軍陸地測量部が設定した日本水準原点標が、現在でも旧・参謀本部の敷地跡(現・国会前庭洋式庭園)にそのまま残っている。
 上落合に住み、下落合の刑部人(おさかべじん)邸Click!や島津邸Click!の設計にたずさわった吉武東里Click!だが、設計作品のひとつである国会議事堂を散歩するついでに、1891年(明治24)に設置された日本水準原点にも立ち寄ってみた。水準原点標そのものは、明治のお抱え建築家コンドルの弟子で工部大学校出身の、佐立七次郎が設計した建物に覆われて見ることはできない。この地点は、当初24.500mと測量され、すべての日本地図の基準標高となった。
 この24.500mという標高値を求めるために、実に7年の歳月を費やしている。東京湾に大きく口を拡げた隅田川Click!河口の海面を0mとする測量は、早くも1873年(明治6)にスタートしているが、その後エンエンと海面の上下動(潮の満ち引きによる干満差異)を測量しつづけ、ようやく7年後の1879年(明治12)になって海面平均値の0mを規定し、陸軍の参謀本部(陸地測量部)敷地内の一角に水準原点標24.500mを設定した。その後、標高が記載された日本の地図はすべて、この水準原点の標高をもとに測量・掲載されていることになる。
 
 しかし、東京は1923年(大正12)に関東大震災を経験している。関東地方の、特に海岸線に近い位置の地面Click!はいっせいに隆起し、たとえば湘南海岸では1~3mほど土地全体が盛り上がっているのが確認されている。また、その後再びプレートが引っぱられているのか、地面が少しずつ沈下をしつづけているようだ。逆に、関東大震災によって地面が従来よりも沈下してしまったところも少なくない。水準原点標の土地は、震災後24.500mから24.4140mと測量し直されているので、震災前に比べて8.6cmほど地面が沈下しているようだ。
 大震災の前年、1922年(大正11)に作成された地形図が、標高値の狂いが想定されるので“お蔵入り”に近い扱いを受けたことを、このサイトでも過去の記事で一度触れていた。同年に、都市計画東京地方委員会によって作成された3千分の1地形図がそれだ。たまたま、落合・高田(目白)地域の地形図Click!が作成されていたので引用しているけれど、1922年(大正11)に作成されたにもかかわらず、実際に陽の目を見たのは4年後の、1926年(大正15)になってからのことだ。作成当初は、もちろん日本水準原点をもとにして等高線を描いていたのだろうが、震災後も標高値がそのまま変わらずにいたかどうかは不明だ。ひょっとすると、4年間かけて標高(等高線)の狂いがないかどうかを検証していたのかもしれない。でも、4年間というタイムラグはあまりにも大きく、1922年(大正11)と1926年(大正15)とでは落合・高田(目白)界隈の街の様子は一変してしまっている。
 
 このサイトで多用している1936年(昭和11)の空中写真も、陸軍航空隊と連携して撮影した陸地測量部の仕事だ。大正末から昭和初期にかけては、試験的に空中写真が撮影されることはあっても、きわめて局地的な撮影に限られていたらしい。それが全国に拡大されたのは、空中写真から地図を作成する技術が本格的に導入されはじめた、1936年(昭和11)以降のことのようだ。わたしは、大正末から昭和初期にかけて撮影された空中写真を探しつづけているのだけれど、おそらく戦災で焼けてしまったのか、いまだかつて目にしたことがない。局地的な撮影といっても、少なくとも東京はカバーされていると考えているのだが、詳細は不明のままだ。
 陸軍の旧・参謀本部と旧・陸地測量部(現・国土地理院)の跡地は、ふたりの娘を下落合へ嫁に出した尾崎行雄(咢堂)Click!を記念する憲政記念館と、丸ごと国会前庭洋式庭園になっている。庭園内にはレストラン「霞ガーデン」があるのだけれど、休日に出かけたので残念ながら営業していなかった。このレストランの洋食メニューは豊富で、ちょっと値段が高いにもかかわらずかなり前から目をつけていたのだ。出かけた日がすごく寒かったせいか、レストラン横のトイレは国会議事堂や首相官邸を警備する警官たちが、入れ替わり立ち代わり小用に訪れていた。
 
 銀座の歌舞伎座リニューアルで、内部に架けられている佐伯米子Click!の作品がどうなるのかも気になるけれど、国会議事堂内にもっとも多く架けられている刑部人Click!作品も、一度じっくり観賞してみたいものだ。国会議事堂と刑部人アトリエClick!が、吉武東里の建築作品と刑部人の絵画作品とでつながっているのもまた、たいへんめずらしい偶然なのだ。
 先日、銀座の日動画廊Click!で行なわれた「刑部人展 片雲の旅人」展覧会Click!へお邪魔してきた。わざわざ、刑部昭一様Click!が招待してくださったのだ。特に、金山平三Click!とともに旅先で制作した作品群が、とても印象的だった。国会議事堂の作品も気になるけれど、下落合の風景も描いていて「非常識」なエピソードにこと欠かないおふたりのこと、いっそ地元新宿で「金山平三と刑部人」展という企画はいかがだろうか? 地元ならではの、楽しい展示ができると思うのだが。

■写真上:旧・陸軍陸地測量部の前庭に設置された、日本水準原点標の建物。
■写真中上:左は、明治末の陸軍陸地測量部の建物で右手に見えているのが陸軍参謀本部。右は、1947年(昭和22)に米軍によって撮影された焼け跡の国会議事堂周辺。
■写真中下:水準原点建物の正面には、「大日本帝国/水準原点」と彫刻されている。
■写真下:左は、国会前庭洋式庭園から眺めた大熊喜邦と吉武東里のコラボ作品・国会議事堂。右は、国会議事堂から眺めた三年坂方面。その昔、「超高層のあけぼの」などと呼ばれた霞ヶ関ビルがすっかり“小さく”なってしまった。霞ヶ関ビルの左手にある茶色いビル2本は、最上階近くに霞山会Click!も入る霞ヶ関コモンゲートで、金融庁や文部科学省、会計検査院などが入居している。