昨年の夏ごろ、佐伯祐三Click!がイーゼルを立てた、『下落合風景』Click!の描画ポイントのひとつが更地になっていた。わたしが記憶している限り、その住宅は趣きのあるモダンな板塀に囲まれ、背のあまり高くないスギかヒノキの針葉樹に囲まれていて、初夏になると庭先にはアジサイが美しく咲きそろっていたと思う。わたしが、まだ学生時代のころからずっと建っていたお宅だ。諏訪谷に面した尾根上敷地の南側の崖上、つまり佐伯の描画ポイントのほぼ真上Click!に家屋が建っていたため、佐伯が据えたイーゼル位置に立つことが不可能だった場所だ。
 散歩の途中で更地になっているのに気づいたわたしは、あいにくその日はデジカメを持って出るのを忘れ、次に前を通りかかったらぜひ撮影しておこうと記憶にとどめた。それから、わずか数週間ほどのち、カメラを手にブラブラ散歩に出かけたら、すでに工事中の柵に囲まれ住宅のコンクリート基礎工事がスタートしていて、敷地の中へはもはや立ち入ることができなくなっていた。ほんとうに惜しいことをしたと思う。更地になっていたのは、わずか1~2週間ほどだったのだろう。更地の前を通りかかったとき、携帯のカメラでもいいからとっさに撮影しておくべきだったのだ。
 この描画ポイントあたりから描いた佐伯作品は、いまのところ4点を確認することができる。もっとも、その中の1点はすでに現存していないものか、正式な作品画像が残っておらず、1929年(昭和4)に開催された1930年協会第2回展の大阪会場写真、ないしは佐伯家が美津濃で開いた遺作展Click!の会場写真に残る、やや角度が異なる諏訪谷を描いた『下落合風景』Click!だ。その画角の様子から、ひょっとするとこの作品のみ、久七坂筋の道路上にイーゼルを据えて描いたものかもしれない。いずれにしても、4作品は曾宮一念Click!のアトリエClick!前に拡がる諏訪谷を南東方向から描いたものであり、「制作メモ」Click!では「曾宮さんの前」Click!に比定することができる。
 
 4作品のうち、2作品は1926年(大正15)の秋に、残りの2作品は降雪後の諏訪谷を描いたものだ。雪のない諏訪谷が「曾宮さんの前」だとすると、制作日は同年秋の9月20日。この年の冬は雪日が多かった年で、同年の暮れから翌1927年(昭和2)にかけ、頻繁に降雪日がみられる。秋と冬の両作品を比較すると、わずか4~5ヶ月の間に諏訪谷の宅地開発が急速に進んでいった様子がわかる。秋の風景に描かれた家々が、雪景色の作品ではより多くの家々に囲まれており、また描画ポイントの手前崖下にも、新たな家が何軒か新築されている。曾宮一念が前年の1925年(大正14)に描いた、『冬日』Click!や『荒園』Click!に見られる諏訪谷の風情は一気に姿を消し、アッという間に住宅で埋めつくされていった様子がうかがえる。換言すれば、佐伯は1926年(大正15)の秋、まさに諏訪谷で宅地開発が行われている真っ最中の情景をとらえていたことになるのだ。
 さて、1926年(大正15/昭和元)から1927年(昭和2)にかけ、諏訪谷がかなりの雪で覆われてしまう日は何度あったのだろうか? 東京気象台が記録した天候を参照してみよう。なお、降水量は水量計で雪が溶けたあとに計ったもので、降雪量への換算は一般的に×5~10倍の積雪となる。
 ■1926年(大正15/昭和元)
  12月15日(雪)・・・降水量13.4mm(降雪量67~134mm)
  12月19日(雪)・・・降水量1.1mm(降雪量5.5~11mm)
 
 ■1927年(昭和2)
  2月5日(雪)・・・降水量9.0mm(降雪量45~90mm)
  2月22日(雪)・・・降水量21.2mm(降雪量106~212mm)
  2月25日(雪)・・・降水量3.6mm(降雪量18~36mm)
  2月26日(雪)・・・降水量5.2mm(降雪量26~52mm)
  3月4日(雪)・・・降水量1.4mm(降雪量7~14mm)
  3月5日(雪)・・・降水量4.0mm(降雪量20~40mm)
  3月13日(雪)・・・降水量35.2mm(降雪量176~352mm)
  3月20日(雪)・・・降水量46.1mm(降雪量230.5~461mm)
 こうして見ると、諏訪谷の『雪景色』作品から感じ取れるような、かなり大量のドカ雪的な積雪があったのは、おもに1927年(昭和2)の3月だったことがわかる。他にも、1926年(大正15)12月15日に10cm前後、また1927年(昭和2)2月22日にも20cm前後の積雪が見られるが、わたしは作品に描かれた積雪の様子から、もっと大雪の日を想像してしまうのだ。すなわち、1927年(昭和2)3月13日の30cm前後、さらに同3月20日の40cm前後の大雪が、描かれた雪景色のような風情を諏訪谷へもたらしたのではないだろうか? ちなみに、当時の気象記録によれば、いずれの降雪日の翌日は晴天、あるいは快晴となっている。
 
 
 諏訪谷に新築された一戸建ての住宅は、いまだ買い主が決まっていないようだ。もし宝クジかなにかが当たり、わたしにおカネがゴマンとあるなら、めったに出ない佐伯の描画ポイント物件なので思い切って買ってしまうかもしれないのだが、おそらく8,000万円は下らないのだろう。でも、そこで佐伯が描いた15号や20号の『下落合風景』は、その倍の金額を出しても手に入るかどうかはわからない。諏訪谷を描いた『下落合風景』が、描画ポイントに新築された一戸建ての2~3軒分もするというのを考えると、なんだか妙で不思議な気分にもなってくるのだ。

■写真上:描画ポイントに新築された一戸建ての玄関で、背後には聖母病院の尖塔が見える。
■写真中上:左は、1926年(大正15)9月20日に描かれたと思われる『下落合風景』の「曾宮さんの前」。右は、同作のバリエーションと思われる佐伯没後の1929年(昭和4)の展覧会場写真。
■写真中下:同じく諏訪谷を描いた、1927年(昭和2)3月の制作と想定できる『雪景色』2作。
■写真下:上は、今年の2月2日に撮影した降雪後の諏訪谷。下は、諏訪谷の南尾根に建つ、薄いサーモンピンクとベージュの外壁が周囲の環境と意外にマッチする新築一戸建て。