1919年(大正8)に印刷された、貴重なカラー人着絵葉書がある。「高架鉄道並ニ帝国ホテルノ美観」THE KOKATD(Eの誤り)TSUDO TOKYO)と題された、銀座西8丁目(旧・丸屋町/現・銀座8丁目)を、土橋の南詰め(二葉町)側から眺めた風景だ。この写真で貴重なのは、同年に失火によって全焼してしまう帝国ホテルの姿を、おそらく最後にとらえた写真・・・というばかりではない。関東大震災Click!ののち、この風景が大きく変貌したあと、1926年(大正15)のおそらく春先に、佐伯祐三Click!がこの風景を描いているからだ。そして、手前の汐留川に架かる土橋左手に見えている、黒い重厚な瓦屋根の日本家屋こそが、佐伯米子Click!の実家、すなわち二葉町4番地にあった池田象牙店の母屋あるいは店舗・蔵の一部である可能性が非常に高い。
 絵葉書に印刷された風景を、順番に見ていこう。まず、この写真が撮られたのは、土橋の向こう側が銀座西8丁目ではなく、丸屋町と呼ばれていた時代だ。画面中央の奧、チラリと見えている数寄屋橋へとつづく外濠の内側(西側)には、東海道線のレンガ造り高架がある。現在でも、このレンガ高架は残っているので、目にされた方も多いだろう。その上を走る、蒸気機関車が牽引する東海道線のさらに遠景、空を舞う複葉機の左下には、焼失直前の帝国ホテルが見えている。同ホテルは1919年(大正8)に焼失したのち、F.L.ライトClick!の設計による二代目建築(新館)の工事が急がれることになり、1923年(大正12)におおよその完成をみている。
 さて、手前の土橋北詰めに見えている、まるで灯台のような塔を備えた店舗は、おそらく江木写真館の震災前の姿だ。その右手奧に建築中のビルは、銀座西にあった逓信省の電信電話交換局分局だ。このビルは石造りまたはコンクリート製で、大震災の延焼により内部は全焼したが外観は焼け残り、その後リニューアルされ交換局として戦前まで使用されている。手前の土橋は、右側(東側)の橋げたを普請中なのか、工事の足場のような木組みが見えている。震災ののち、土橋は外濠通りの拡幅化にともない、東側へと少し移動しているようだ。

 

 1923年(大正12)9月の関東大震災により、絵葉書用に撮られた写真の風景は一変する。有楽町駅の一部周辺を除き、銀座や新橋はほとんどすべてが焼失した。ちなみに、有楽町駅周辺が焼け残ったのは、同地へ鎮座する有楽稲荷のご利益だということで、下町では一時「有楽稲荷ブーム」が起きている。土橋の南北にあった、丸屋町(のち銀座西8丁目)と二葉町もすべて焼け、二葉町4番地の池田象牙店の蔵に積まれていた膨大な象牙は、すべてが灰になった。同店には、蔵の象牙を外濠に投げ入れて火災から救おうとした使用人もいたらしいが、池田家では人命第一ということで早々に二葉町から山手方面へと避難している。このとき、池田家が避難先としてめざしたのが、下落合にアトリエを建てて間もない娘婿の佐伯邸Click!だった。
 震災の混乱が落ち着き、震災復興計画の実施とともに、土橋周辺は大規模な区画整理が行なわれ、昭和に入ると外濠通りの拡幅にともなう土橋のリニューアルや、周辺道路の11m拡幅工事などにより、池田象牙店は東海道線の二葉橋ガードを西へとくぐり、反対側の新幸町6番地の角地へと移転している。おそらく、東京のあちこちの工場をめぐり、機械のモチーフClick!を描いていた佐伯米子は、「新橋の実家」すなわち新幸町6番地から写生に出かけていたものだろう。

 
 
 1923年(大正12)の11月、震災の東京から脱出するようにパリへと向かった佐伯一家は、2年4ヵ月ぶりの1926年(大正15)3月に帰国している。そして、翌4月に東京へもどると、当時はいまだ土橋の南詰め(二葉町4番地)にあった池田家へ、さっそく帰国の挨拶に訪れただろう。その際に描かれたのが、パステルで着色されたスケッチ『銀座風景』(1926年ごろ)と、油彩の『ガード風景(新橋ガード)』だ。特に『銀座風景』は、池田象牙店の2階から土橋の方角(北)を向いて描かれており、震災後のバラック建築が建ち並ぶ銀座西8丁目の様子をとらえたものだ。
 江木写真館の塔のある、おそらくレンガ造りだった西洋館は、震災で崩壊したか全焼したのだろう、すでに存在しておらずバラック風の店舗になっているけれど、その奧に建設中だった銀座西の電信電話交換局分局ビルは、そのまま内装をリニューアルして使われていた様子が描かれている。左手の外濠沿いの路面を走る東京市電の様子は、絵葉書の風情とまったく同じだ。銀座方面から土橋際へとつづく外濠通りは、いまだ拡幅されてはおらず、そのまま土橋の北詰めでクラックして突き当たったままだ。おそらく、佐伯の『銀座風景』が描かれた直後から、震災復興計画にもとづく本格的な区画整理や道路工事がスタートしたものと思われる。
 
 
 佐伯は、池田家の店舗あるいは母屋の2階の窓際に、スケッチブックを手にして立ちながら、「銀座」という地名が付けられたばかりの旧・丸屋町(銀座西8丁目)界隈を写しとった。震災のむごたらしい焼け跡は、佐伯が滞仏中にほとんど消えていたのだろうが、間に合わせに建てられたバラック建築や仮店舗などは、いまだあちこちに見られたにちがいない。20号のキャンバスへ、油彩の本格的な仕事を再開した『ガード風景』は、池田象牙店のすぐ左手(西側)あるいは裏手(南側)にあった、歩行者用ガードのいずれかひとつを描いたものとみられる。
★佐伯の新橋ガードを描いた作品については、ものたがひさんが詳細な検討Click!をされている。
 東海道線のガードは、大規模な編成で重い車両の通過を想定しているためか、レンガは山手線や中央線の“イギリス積み”Click!とは異なり、コスト高だが頑強な“小口積み”が採用されている。

◆写真上:1919年(大正8)に撮影されたとみられる、「高架鉄道並ニ帝国ホテルノ美観」絵葉書。
◆写真中上:上は、同絵葉書に写る構造物や建物の特定。中左は、絵葉書の手前に写る土橋上から丸屋町(現・銀座8丁目)の方角を向いて撮影した現状。中右は、首都高速に隠れがちな江木写真館跡を撮影したもので、現在はやはり塔状の構造物がある「静岡新聞/静岡放送」のビルとなっている。下は、1930年(昭和5)ごろに採集された土橋界隈の様子。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)の春に描かれたと思われる佐伯祐三のスケッチ『銀座風景』。今回の新宿歴史博物館で開かれている「下落合の風景」展Click!へ出品されている。中左は、明治中期の地図にみる池田象牙店がのちに建つ土橋脇の二葉町4番地で、東京駅まで通う東海道線はいまだ敷設されていない。中右は、1931年(昭和6)に作成された「大東京案内」地図にみる『銀座風景』の描画ポイント。震災復興計画により、土橋が外濠通りと連続した東の位置へと移動し、付近の道幅が拡幅されている様子がわかる。下左は、おそらく区画整理でガード向こうの新幸町6番地へ移転直後に撮影されたとみられる、再開店したばかりの池田象牙店。下右は、1950年(昭和25)ごろの地図にみる芝新橋の「池田美術店」。
◆写真下:上左は、1926年(大正15)に制作された佐伯祐三『ガード風景』。上右および下は、旧・池田象牙店のあった土橋南詰めのすぐ西側、二葉町4番地つづきの二葉橋ガード。