江戸東京方言(およそ町ごとに異なる多彩な東京弁)と、「標準語」とが同じものだと思っている人が多いのに、改めて愕然としてしまう。少し前、「OPALな日々」のOPALさんClick!も書かれていたので、さっそくコメントを書かせていただいたのだけれど、東京方言と「標準語」とは、用語やアクセント、イントネーションなどもろもろの特徴を含めて、まったく異なる別モノだ。「標準語」を“母語”とする地域などこの世に存在しないし、江戸東京地方には当然のことながら江戸東京方言が代々、生活言語として存在している。数多くの先達や、山手と下町とを問わず現在でも多くの地付きの人々が証言しているように、わたしも“母語”感覚Click!や育ちからいえば、「標準語」は正体不明のおかしなしゃべり言葉で、随所で「訛って」いるように聞こえてしまうのだ。
 「標準語」は当初、薩長の明治政府肝煎りで、江戸東京方言でも旧山手の言葉(士族言葉)をベースに人工的に作られたものだから、それと同一だと思われている方もいたりする。わたしが山手言葉について書くのも妙だけれど、両者はまったくちがう。代々生っ粋の乃手人に訊けば、すぐに激しくクビを横にふられるだろう。その“ちがい”さ加減は、時代劇に登場する下町Click!の町人たちが、そろいもそろって職人言葉(しかもたいがい品のない)を話しているのにも似て、事実とフィクションとでは大ちがい・・・なほどの“ちがい”なのだ。どこか無骨な感覚が宿る乃手弁に比べ、商業ベースで発達し洗練された下町弁のほうが、音韻もやさしく美しいとさえ感じることがある。
 「標準語」に比べれば、山手言葉も下町言葉もおよそ美しくてやさしい。もっとも、これは東京地方のみの感覚なので、外側から見たらここの方言はキツイと感じる地方の方もいらっしゃるかもしれない。ブツブツと、まるで打ちの足りない蕎麦を食っているような「標準語」は、たとえばTVやラジオのアナウンサーがしゃべるのを長く聞いていると、耳がグッタリと疲れてくる。江戸東京の各地で代々話されている生活言語と「標準語」とは、もう一度繰り返すがまったく異質だ。明治以来、今日まで近代国家の統一をめざして学校で教えられ(戦前に学校で東京弁をしゃべり、教師に怒られて訂正された経験をお持ちの方がたくさんいらっしゃる)、戦後はおもに放送局のアナウンサーがしゃべる人工語が「標準語」であって、江戸東京方言とは似て非なるものだ。
 もっとも、乃手にしろ下町にしろ、家庭内で東京弁をしゃべる人の数が徐々に少なくなり、あるいは近所づきあいで地付きの人々との交流が徐々に減り、代わってマスメディアから「標準語」がたれ流されているがゆえに、戦前からの東京地方以外で生まれ育った人々の大量流入と相まって、この地方の方言が衰退していることは間違いなさそうだ。ここでも何度か取り上げているけれど、東京ではアイヌ語講座Click!が盛んだが、ほどなくその隣りに江戸東京方言講座(旧山手コース/新山手コース/神田コース/下谷コース/深川コース/日本橋コース/本所・向島コース・・・)などというのが、どこかの市民大学講座か文化センターで開講するやもしれない。w
 だから、東京地方以外のみなさん、よく「東京弁が地方の方言文化を侵食し、破壊している」・・・なんて人聞きの悪いおかしげな話を聞くけれど、それは根本的な錯誤であり認識不足なのだ。地域の特色ある生活言語を侵食しているのは、東京方言ではなく明治政府に根のある「標準語」なのであって、まちがいなく東京方言の山手言葉および下町言葉もその侵食の“被害者”だ。文句があるのなら、薩長の明治政府とその施策を止めようとしない文科省、あるいは放送局に言っとくれ。
 
 OPAL管理人さんと、どうしたら江戸東京方言の妙味をわかりやすく伝えられるのだろうか?・・・とお話してたら、ちょっと面白い本を見つけたのでご紹介したい。子母澤寛という作家がいたが、昭和初期に新聞記者をしていた時代、東京各地や近郊に住むさまざまな階層の人たちへインタビューした、聞き書き集『味覚極楽』(1927年/解題1957年)という作品を残している。華族から役者、料理人、駅長、医者、僧侶など登場する人たちも多彩で、彼らが当時しゃべっていた言葉を、できるだけすくい取って記しているのが面白い。華族といっても、みな乃手言葉を話しているかというと、中には下町言葉で話したのだろうと思われる聞き書きもある。そういえば明治以降、勝安芳もさかんに下町言葉をしゃべっていたのが記録されている。もちろん、録音データ起こしなどない時代だから、当人がしゃべった正確な記録ではないのだが、子母澤はできるだけニュアンスをつかみ取って文章化していると思われる。たとえば、役者の尾上松助のインタビューはこんな具合いだ。
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 ちっとばかり辛いかナと思う位に醤油を入れて、こわ目に茶飯を炊いてよく食べる、一日おき位にはやるんでげすよ。これへ大鯛の生きのいいのを、ぶつ切りの刺身にして、薬味を入れないおしたじ、亀甲萬Click!がいい。別にいい茶の熱いのを汲んで、これをつまりお椀代わりにしていただくんです。それあうまい。この刺身が鮪となると、ちょっとまた調子が変わって来て、べとりと舌へ残るあぶらあじと、茶めし(ママ)の味とが、どうもぴたりッと来ない。矢張り、茶めしには鯛、これがなかったらまず平目でげしょうかな。 (「大鯛のぶつ切り」尾上松助氏の話より)
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 役者はちゃんと下町言葉ベースの「芸人言葉」(江戸後期に花柳界で流行した幇間言葉に近い)をしゃべり、牛込区河田町の伯爵・小笠原長幹はいかにも旧山手の無骨な言葉にちょっと崩した下町弁の混じった様子で、“うまいもん”をあーでもないこーでもないと楽しそうにしゃべっている。下落合と東日本橋のミツワ石鹸Click!=三輪善兵衛Click!は、日本橋言葉とも山手言葉ともつかない微妙な言いまわし(実際、子母澤にはそう聞こえたのかもしれないが)で天ぷらを語り、根っからの地付きである高村光雲は美しい下町言葉(光雲は下谷弁だろう)を話し、同じく根っからの東京舌の大倉久美子は、美しい山手弁で東京の食べ物を絶賛する。これらのインタビューが、音声として残されていないのがいかにも残念だ。音声で聞きさえすれば、東京方言と「標準語」とが発音、アクセント、イントネーション等々、すべての面においていかに異なるかが一聴瞭然だったろう。
 ちなみに、いまわたしが興味をおぼえているのは、外出から帰った家族を出迎える言葉として、「おかいんなさい」あるいは「おかいり」という地域と、「おかえりなさい」「おかえり」という地域が、旧市街のどのあたりの境界で変化していくのかな?・・・というテーマだ。もちろん、前者がおもに(城)下町言葉で後者がおもに山手言葉なのだが、案外クッキリと残っているのではないかと想像している。そして、「標準語」では山手言葉である後者が採用されているようだ。
 
 おしなべて、子母澤寛は山手弁の表現があまり得意ではなかったらしく、下町言葉になると俄然、文章が活きいきとしてくる。北海道生れの子母澤だが、先祖代々が江戸生まれで、戊辰戦争の際には薩長軍と戦うために江戸から北海道へ向かった家柄なのだから、家庭内で話されていたのはまちがいなく江戸方言、それも祖父の言葉づかいから判断するといずれかの下町弁だったと思われる。ついでに、宮内省厨司長の秋山徳蔵が面白い話をしているので、ご紹介しておきたい。
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 東京は器物をそこへおいたまま箸で食物をつまみ上げてたべる。関西は器物を手にもって、すぐ口のそばまで運んできて食べる。従って関西はおつゆがたっぷりついて舌の上へ来るし、東京はつゆは置き去りにして物だけが来る。/関西はこんなことから古来おつゆにしっかり味がついていて、ふくみ併せたべて、本当の味が出るようになっており、東京はつゆはいわばおまけで、「物」へしっかりと味がついている。東京の人が関西のをたべて、よく「少し塩味が足りない」というが、これは食べ方を知らないのである。関西の人もまた東京のをたべて、つゆをたっぷり含ませてやるから、「少し塩が強い」という、これも間違っている。東京人は関西のものの、味の半分だけしか舌へのせず、関西人は江戸っ子料理の、添え物まで舌へ持って来ているのである。
                                 (「料理人不平話」秋山徳蔵氏の話より)
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 上記の文章の「東京」を、「関東」と言い直してもほぼ間違いないだろう。なるほど・・・と、思い当たることがままある。わが家の食習慣だが、食事中いちいちおかずの小皿や小鉢を手にとって、口もとへなど運ばない。むしろ、そんなことをすれば親から「お行儀が悪い! 品のないことするんじゃありません。ちゃんと器を置いて、お箸でつまんでお食べなさい。お箸はなんのためにあるんです?」と、すぐさま叱られてしまうだろう。秋山が書く「食べ方を知らない」からではなく、行儀が悪くて食事の作法としてはマズイからだ。手に持つのは、飯茶碗と汁椀ぐらいのもので、おかずの皿や鉢の上を箸がタテヨコへと滑っていく・・・というような動作。食文化による味覚の本質的なちがいももちろんあるのだろうが、食習慣や作法が異なるために味わい方のちがいも、またかなり大きそうだ。
 
 地方分権の流れとともに、地域色をより強めるためにか各地の自治体が方言の復活へ取り組んだり、授業へ方言教育を積極的に取り入れるところが増えている。地域専用の日本語IMEが開発され、方言変換が容易になったというニュースも聞く。東京弁がちゃんと変換されないIMEに、しょっちゅうイライラさせられているので、もちろん大賛成だ。わたしも東京弁ばかりでなく、島根弁や大阪弁、熊本弁が大好きで、ここでもずいぶん記事の中へいい加減だが書いてきた。気味(きび)の悪い「標準語」ではなく、きれいな江戸東京方言の復活のために、東京でも小学校で方言教育をしたらどうだろう。(英語よりよほど重要だと思うのだが) そうすれば、「マジ」Click!というような若者の新造語は聞き苦しい・・・などといっている、地域文化に鈍感で疎いヒョーロン家も少しは減るやもしれない。地方の言葉や文化を尊重したいと考えてる日本各地のみなさん、得体の知れない「標準語」から方言文化を守る運動があれば、東京地方からも協力しますよ。わたしも、地域の方言を大切にして話していきたいし、残していきたいから。だからこそ、「標準語」=東京弁だと思っているらしい大まちがいの意識から、まず徹底的に変革してほしい。この錯誤自体が、江戸東京方言をないがしろにする明治政府以来の「標準語」の存在と、まったく同質の意識だからだ。
 もっとも、江戸東京は地域的にも広大で、幕末には2,000町をゆうに超えていたわけだから、乃手と下町のちがいばかりでなく、おそらく旧35区いずれの地域でも生活言語が少しずつ異なっていたはずだ。広いモシリ(大地)のアイヌ語に、道南からカラプト(樺太)にいたるまで、さまざまな方言が存在するのと同様だ。それには、まずはちゃんとした地域ごとに特色のある東京方言を、きれいにしゃべれる先生の確保からスタートしなければならない・・・のかな?^^;

◆写真上:左は、エテ公が大好きな子母澤寛。右は、1927年(昭和2)に東京日日新聞(現・毎日新聞)の記者をしていた際、著名人から聞き書きをしてまとめた『味覚極楽』(中央公論社)。
◆写真中上:左は、本書にも登場している牛込・河田町(現・新宿区)に住んだ小笠原長幹伯爵の子どもたち。後列左が小笠原松子、右が忠幸、前列右から左へ順番に、忠統、忠如、福子、元彦。右は、同写真が撮られた若松河田に現存する小笠原伯爵邸の庭先。
◆写真中下:左は、本書に登場する男爵・大倉喜七郎の夫人・大倉久美子(華桂)で、伯爵・溝口家で育った生っ粋の旧乃手人。結婚式の招待客にお酌をしてまわった彼女は、明治期の「お嬢様」としては考えられない“革命的”な行為でマスコミにも取り上げられた。右は、下落合の別名・大倉山の名前が残る権兵衛山の坂道(権兵衛坂)。大倉財閥の所有地だったことから「大倉山」とも呼ばれ、明治の早い時期には伊藤博文の下落合別荘が建っていたという伝承が残る。
◆写真下:左は、1927年(昭和2)の夏に撮影された長谷川時雨一家で、左手に座るのが押しかけ亭主の三上於菟吉。時雨の口から、すぐにもキレのいい日本橋弁Click!が聞こえそうだ。右は、頭上の高速道路を取っぱらったあとの日本橋川Click!に架かる橋々の景観予想計画図。