かなり前に、上空から眺めると北斗七星Click!のように見える、御留山Click!に建つ相馬孟胤邸Click!の屋根について書いたことがある。検証するのに使用したのは、1936年(昭和11)に撮影された空中写真だが、おとめ山公園が2013年を目標に1.7倍へ拡張されるのにともない、相馬邸の黒門から母屋にかけての建築位置を、改めてもう一度確認しておきたい。
 検証方法は、それほど難しくはない。1936年(昭和11)現在の空中写真と、最近の空中写真とを重ね合わせ、当時から動いていない道路や目標物を厳密にポイントして透過させれば、自ずと相馬邸の位置はハッキリする。結果からいえば、相馬邸の玄関や応接室、中庭、「表座敷」、「居間(サンルーム)」などと呼ばれた母屋の主要な建物は、東邦生命(第一徴兵)保険の4代目・太田清蔵Click!が1941年(昭和16)以降に開拓したとみられる6m道路、現在の財務省官舎に接した東西道からほぼ北側に集中して建設されていた。したがって、財務省官舎の敷地内に残る庭石や礎石は、おそらく母屋を解体した際に出たものを、そのまま南側の空き地へ運んで並べたものだろう。
 それらが、工事関係者の都合でデタラメに放置されたものでないことは、特に礎石類の並べ方に一定の規則性が感じられることでも明らかだ。これらの礎石は、7つの丸石が1本の主柱を支える一組の“礎石セット”になっていると思われ、相馬邸の建築物を支える太い主柱の礎(いしずえ)の何本かには、「七星」が敷かれていたと想定することができる。つまり、同邸に住む相馬家の人々Click!は、天上に北斗七星を形成する屋根をいただき、地下には「七星」を敷いた何本かの柱(おそらく7支柱ではないか)によって邪気を払い、一族の繁栄と安泰を願ったものとみられる。相馬邸全体に、妙見信仰による北斗七星の強力な結界が張られていたことに、改めて驚きを感じるしだいだ。
 
 
 1939年(昭和14)に、相馬家が下落合の御留山から中野のやはり旧・神田上水沿いへ転居したあと、御留山の旧・相馬邸には一時的に太田清蔵が住んでいたようだが、同敷地の登記名義は清蔵ではなく、子息である太田新吉(のち5代目・太田清蔵)名義となっている。それが確認できたのは、御留山全体に住宅地を造成しようとしていたとみられる太田家が、戸塚警察署へ6m道路の認可を得るために提出した造成計画にもとづく、「淀橋区下落合壱丁目指定申請建築線図」(いわゆる「位置指定図」)の存在だ。新宿区のみどり公園課の方にご教示いただき、さっそく申請・入手した。1940年(昭和15)12月11日付けの同図には、所有者名義として渋谷区隠田364番地(現・神宮前地域)に住んでいた太田新吉の名前が記載されている。
 でも、この「位置指定図」には既存の建物はいっさい描かれておらず、あくまでも分譲予定の地割りと、分譲地を南北および東西に走る6m道路計画が記載されている。おそらく、警視庁の認可を得るために作図されたものと思われるが、実際に1940年(昭和15)時点で道路の開拓や、分譲敷地の地割りが完了していたとは思えない。なぜなら、翌1941年(昭和16)に香椎中学校Click!の長沼賢海校長Click!が、黒門Click!の移築Click!をめぐり御留山に住んでいた4代目・太田清蔵を訪ねているからだ。この時点では、旧・相馬邸の黒門および母屋はいまだそのままの状態で残っており、黒門が解体・移築されたのと同様に、母屋が解体されたのは1941年(昭和16)以降のことだろう。

 その後、日本が太平洋戦争へと突入し、年を追うごとに戦局が悪化していく中で、軍事輸送を最優先する物流環境のもと、黒門を福岡へ移築するための部材輸送がままならなかった様子は、すでに記事にしたとおりだ。御留山の宅地造成も、おそらく必要な資材や機器、人員の確保が困難となり、特に1943年(昭和18)以降はまったく工事中止のような状態だったのではないかと思われる。それは、1944年(昭和19)に陸軍航空隊が撮影した最後の空中写真でも、いまだ分譲地内にはあまり住宅が建設されておらず、空き地ばかりなのを見れば明らかだ。1945年(昭和20)5月25日の山手空襲Click!では、同分譲地に早くから建っていたいくつかの住宅が炎上したため、「相馬邸は空襲で焼けた」という誤伝承が生じたものとみられる。
 御留山の「位置指定図」で面白いのは、林泉園Click!の谷戸から南へ向いて下る渓谷に、大規模な道路計画が策定されていたことだろう。おそらく、林泉園と御留山の谷戸全体を埋め立て、11m道路を東西と南北にクロスさせて敷設しようとしている。この計画が、東邦電力が開発した林泉園(近衛新町)と御留山を開発した東邦生命(第一徴兵)の、「東邦グループ」によるコラボレーション事業なのか、それとも当時の道路敷設を監督していた警視庁が企画していたものかは定かでないが、戦後いつごろまで活きていた道路計画なのかが気になる。地下鉄工事で出た土砂により、林泉園から南へつづく渓谷が埋め立てられているのは、戦前に策定された道路計画の名残りだろうか? この11m道路計画が描かれた「位置指定図」には、近衛町Click!にあった安井曾太郎Click!のアトリエ敷地Click!が描かれているのも目を惹く。

 御留山の南側には、薬王院名義の敷地が見えているが、これが1940年(昭和15)現在の藤稲荷Click!の境内だろう。その東側に描かれた、クネクネと蛇行する細い坂道は、小島善太郎Click!が眺めた明治期と変わらないバッケ坂のままとなっているようだ。
 余談だけれど、下落合から中野へと引っ越した相馬邸だが、同じ旧・神田上水沿いに邸をかまえたばかりでなく、近くには下落合とまったく同様に氷川明神社(本郷氷川明神社)と、藤稲荷社(藤神稲荷社)が存在するのが、きわめて興味深い符合だ。そこには北斗七星(妙見)信仰に関わる、なにかを封じこめる呪術的な意味合いがこめられているのだろうか? 縄文期のストーンサークルに端を発するともいわれている、原日本の北斗七星信仰については、また、別の物語・・・。

◆写真上:財務省官舎の芝庭には、サークル状の「七星」礎石がズラリと並んでいる。当時の工事関係者に古来からの七星信仰に詳しい人物がいたか、あるいは相馬家か太田清蔵による指示で並べられたものかは不明だが、いまだ結界が活きているようで興味深い。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)撮影の御留山・相馬邸(左)と、現在の空中写真に重ねて透過させた写真(右)。下は、「七星」礎石の別パターン(左)とズラリと並んだ“礎石セット”(右)。
◆写真中下:1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる、御留山と相馬邸。建物のかたちおよび位置が、空中写真と比較すると実際とはかなり異なっているのがわかる。
◆写真下:御留山の宅地開発と6m道路計画を記載した、1940年(昭和15) 12月11日付けの「淀橋区下落合壱丁目指定申請建築線図」(通称「位置指定図」)。