佐伯祐三Click!の図録や書籍には、第1次渡仏時に同行した木下勝治郎Click!のアルバムからピックアップされた写真が、あちこちに用いられている。最初のフランス行きでは、佐伯自身がカンナClick!と同様にカメラに取り憑かれている。さまざまな情景を撮影しては日がな1日、自分で現像している様子までが伝えられている。以下、1929年(昭和4)に出版された1930年叢書(1)『画集 佐伯祐三』(1930年協会刊)へ寄稿した、里見勝蔵Click!のエッセイ「回想のニ三」から引用してみよう。
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 佐伯はずい分コリ性だつた。画を描けば、全く一生懸命だつたが又画を放棄して全く遊びつゞける事もあつた。/写真にこり出せば、朝から寝る時まで写真、写真、写真、写真、写真・・・・・・それしか何も無かつた。写真機をいぢくりまわし、ネヂをはずしたり、ヂャバラに穴が明いた(ママ)とて、穴ふさぎの方法を考た。写真機の三脚を何処かへ置き忘れて来て、大きな画架を持ち歩いて、その上に写真機をしばりつけて撮影した。/さて現像になると、これ又大掛け(ママ)で、夜なら未だしも、朝から、窓や入口を、大画布と毛布風呂敷を以つて光線をさえぎる。夏ならば暗中を幸ひ、素裸の男三四人、喜びにも失敗にも、ヒステリツクな動物的奇声を発して、写真製造------暑さと空腹と疲労とでやつと窓を開くと、すでに夕日は落ちてゐた事も五度や、八度では無かつた。クラマール住人にしては連日の事だつたに相違ない。
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 里見の文章から、佐伯がかなり写真撮影にのめりこんでいた様子が伝わってくる。いや、木下勝治郎や佐伯に限らず、当時は個人で最新のカメラを持つのが、一種のステータスでありブームだったと思われ、第1次渡仏の往路「香取丸」でいっしょになった美術評論家の森口多里Click!や、パリでともに親しくすごした林龍作Click!などもカメラに凝っていた様子が記録されている。朝日晃によれば森口多里をはじめ、佐伯やその周囲にいた仲間たちが撮影したアルバムは、その多くが戦災で失われているようだ。でも、1923年(大正12)11月26日に神戸からともに「香取丸」へ乗船した、木下勝治郎のアルバムは無事に今日まで伝えられ、佐伯の資料類で頻繁に目にする機会が多い。
 
 
 木下アルバムには、もちろん佐伯夫妻や同行した木下夫妻、西村叡夫妻が写っている写真が残されているのだが、佐伯が不在で他の人物たちが写っているショットも少なくない。つまり、当時の状況を考慮すれば、おそらく佐伯が木下のカメラを借りたか、あるいは佐伯自身が持参したカメラでシャッターを切り、のちにネガを現像・プリントして配った・・・と思われる写真が少なからず存在しているのだ。佐伯の姿が見えず、木下夫妻や米子夫人、弥智子が写っているショット(佐伯がシャッターを切っている可能性のあるショット)は、人々が立ち並んだ記念写真的なものよりも、スナップ写真風のものが多いようだ。人物たちが次の動作に移るほんの刹那、あるいは動いている最中の(レンズをそれほど意識しない)一瞬を切り取ったような画面が見られる。もちろん、いかにも記念写真というようなショットもあるけれど、ピンボケの画面が多い。
 これは、被写体が動きを止めないうちにシャッターを切ってしまったか、あるいは木下(ないしは自身)のカメラに馴れないせいで、ピント合わせの操作がうまくいかなかったのかは不明だけれど、明らかに木下が撮影したと思われる写真に比べれば、カメラ操作のヘタなのが想定できる。被写体の人物たちがレンズに向かって静止せずに、いまだ動いているにもかかわらず、無頓着にシャッターを切ってしまうようなところが、佐伯の写真撮影にはあったのかもしれない。だからこそ、結果的にある瞬間を切り取ったような、リアルでドキュメント風の写真になってしまったのだろうか?
 
 
 木下勝治郎アルバムでいちばんのお気に入りは、パリ郊外のクラマールで撮影された冒頭の写真だ。もちろん、カメラマンは木下勝治郎だと思われるが、いかにもフランスの田舎といった風情の広い道の上に、4人の人物がポツポツと写っている。なだらかな坂道の途中らしく、右側の塀は坂上にいくにしたがって段々状になっているのが見てとれる。人物は、右から里見勝蔵、佐伯米子Click!、その膝上に佐伯弥智子Click!、そしてかなり離れた左側の草むらの中で、あたかも“大”Click!のほうの用を足しているかのような格好をしながら、上半身だけヌーッと出してカメラをのぞいているのが佐伯祐三だ。里見勝蔵は、上掲の文章でこうつづけている。
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 私達の大切な記念写真の多くは、斯様にして、盛大なる努力によつて製造されたのだが、不幸にして日に日に褪色甚しく、おそらく今後五年の中には、何も見えなくなるものもある様だ。しかし、たまには抜群の技術を示して、永久不滅と思はれる物さえある事は特記する必要があるが・・・
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 もう1枚、あまり書籍や図録などで取り上げられない写真だが、やはり木下が撮影したと思われるモレ村での佐伯一家をとらえた写真がある。手前では、松葉杖を置いた米子が写生をしている。画面の奥では、佐伯がイーゼルをすえて制作中のようだ。明らかに逆光気味なのだが、右手の樹木の枝葉で陽光を木漏れ日状態にし、うまく絞りを合わせてシャッターを切っている。先のクラマールの写真とともに、構図的にもかなり安定しているので、カメラの腕前は木下のほうが佐伯よりも上だったように思える。このアルバムは、「静的」(ある意味で「絵画的」)で美しい木下の写真と、「動的」(ある意味でドキュメント的」)な佐伯が撮ったと思われる写真とのコントラストがおもしろい。
 
 街角や風景に展開する、ありふれた日常的な情景の美を瞬間的に写しとるような、驚異的な制作スピードClick!で有名な佐伯の作品なのだが、ある一瞬の「動的」な情景を切り取ろうとするカメラのシャッター操作との間に、はたして共通の意思や視線が存在しているものだろうか?

◆写真上:1924年(大正13)のクラマールにて、右から左へ里見勝蔵、米子・弥智子、佐伯祐三。
◆写真中上:上左は、1923年(大正12)の上海で記念写真に収まる木下勝治郎で、ファインダーから見つめているのは佐伯か。上右は、撮影時期のキャプションがない記念写真で奧に木下、手前右に米子と弥智子、手前左には佐伯祐正Click!と思われる人物が写っているので1925年(大正14)の7月以降か。下左は、1924年(大正13)にパリの停車場で写された米子と弥智子。下右は、小島善太郎Click!が紹介してくれたクラマールのアトリエ前での米子と弥智子。
◆写真中下:上左は、クラマールでの米子と弥智子で、カメラに向かって制止する前にシャッターを切ってしまっているピンボケ写真。上右は、同様に人々が歩きはじめた刹那に声をかけてシャッターを切っており、左側に木下勝治郎がいる。下左は、1925年(大正14)7月のアルル旅行時にゴッホの跳ね橋を写生する木下と思われる人物の背中。下右は、1924年(大正13)のクラマールにおけるピンボケ写真で、前列右から木下勝治郎、弥智子、米子、前田寛治。
◆写真下:左は、おそらくアルル旅行の車窓における木下勝治郎。右は、木下撮影と思われるモレ村で手前に写生をする米子が、奧にはイーゼルを立てて制作中の佐伯が見える。