1918年(大正7)8月末、下落合753番地に竣工した満谷国四郎Click!の新邸Click!は、下落合には多かった西洋館ではなく和館ないしは和洋折衷館だったようだ。関東大震災Click!ののち、満谷邸の南隣りへ転居してくる九条武子邸Click!や、さらに南隣りの彫刻家・夏目貞良邸も、服部建築土木Click!による典型的な日本家屋であり、七曲坂の大島子爵邸Click!の巨大な西洋館を除けば、この界隈は和館あるいは和洋折衷の住宅が数多く建てられていたようだ。
 満谷邸Click!の敷地は、1945年(昭和20)5月25日の山手空襲Click!でも延焼をまぬがれているけれど、陸軍航空隊による1936年(昭和11)に撮影された、つまり満谷国四郎が死去した年の空中写真と、米軍撮影による1947年(昭和22)の空中写真とでは、敷地内に建つ家屋の形状が明らかに異なっている。また、1938年(昭和13)に作成された「火保図」では、1936年(昭和11)の空中写真に見える形状のままなので、満谷家(宇女夫人たち)が国四郎の死後、下落合753番地からすぐ近くの下落合595番地へと転居したのは、おそらく太平洋戦争がはじまる前後ではないかと思われる。すなわち、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にとらえられた、満谷邸とは形状がまったく異なる焼け残った建物は、戦争が激化する以前、つまり建築資材や大工など要員の手配が容易なうちに、すでに竣工していたのだろう・・・と想定することができるのだ。
 さらに、満谷邸の所在地は下落合753番地とされることが多いのだが、豊多摩郡落合村(町)下落合から淀橋区下落合へと行政区分が変更になったあたり、つまり1932年(昭和7)から少しあとの時期(わたしは、落合地域の住所表記が大規模にいじられた1935年前後だと想定しているが)に、下落合(2丁目)741番地へと地番変更が実施されている。おそらく、満谷国四郎の最晩年には、自宅の地番が753番地から741番地へと変更されていたと思うのだ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、変更されたあとの地番が採録されている。
 

 1936年(昭和11)の空中写真や、1938年(昭和13)の「火保図」を参照すると、満谷邸がどのような家屋の配置だったのかを、おおよそ特定することができる。ただし、満谷家では大正末か昭和初期ごろに、母屋の大規模な建て増しをしているとみられ、これらの空中写真や「火保図」に見える家屋の姿は、竣工時の当初の姿とはだいぶ変わってしまっているのだろう。おそらく、当初は母屋とアトリエは北側の道路(子安地蔵通り)に寄った位置に建てられ、南側には広い芝庭を配したのではないかと思われる。ところが、同居人が増えるにつれて母屋が手狭になったため、芝庭の西側をつぶして南へ母屋つづきの増築をしたと思われるのだ。
 満谷邸の母屋が建て増しされた事実は、1937年(昭和12)に出版された『満谷翁画譜』(寫山荘)所収の座談会(初出は前年の「美術」9月号の追悼号)で、牧野虎雄Click!が言及している。同家で起きた「ドロボー事件」について語られているのだが、物音がしたので宇女夫人や妹を起こして見にいかせ、自分はさっさと逃げ出したというエピソードが記録されている。満谷の生前から、おそらく夫人が親しい来客にこぼしていたようなのだが、同書の座談会から引用してみよう。
 
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 成 田 牧野さん泥棒が入つた話はどうですか。
 牧 野 あれは奥さんから聞いたんだから。
 小 杉 どうしたんですか。
 牧 野 泥棒が入つたんですよ夜中にね。今の建増しゝた家ではないのですがね。夜中に眼をさますとバタンバタンといふ音がする。それで先づ奥さんから妹さんまでゆり起して「今泥棒が入つたから誰か見に行け、誰か見に行け」 さうして自分は見に行かない。(笑声)
 金 山 あれをよく奥さんがくやむね。よくくやんで話をするよ。
 牧 野 それで勇を鼓して妹さんが戸を開けて窓から見ると何にもゐやしない。只トタン板が風にあほられて外でバタンバタンやつてゐる。それでそれはまあ宣いんだけれども、ちよつと老人の顔を見たら、奴つこさんは庭の方の戸を開けて、来たら逃げるといふような恰好をしてゐた。それで奥さんがくやしがつてね、こんな頼りのない人はないつてね。(笑声)
 金 山 さういふことがあつたね。
 成 田 女には勇敢だけれども、泥棒には臆病だつたらしい。(笑声)
 牧 野 いや、こつちから廻つてみようとか何とかいつて胡魔化して居つたさうだけれどもね。(笑)
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 このあと、満谷国四郎は宇女夫人と妹から、かなり叱られたのではないかと思われるのだ。
 
 2006年に出版された満谷照夫・宮本高明共著の『満谷国四郎残照』(創元社)には、すゑ夫人が存命中に谷中(天王寺町)のアトリエ内で撮影された写真や、下落合のアトリエおよび庭先で宇女夫人とともに撮影された、貴重な写真類が掲載されている。それを見ると、南側の芝庭で撮影されたとみられる夫妻の写真や、壁面に作品がところ狭しと架けられているアトリエ内の様子がわかる。アトリエ内部の仕様は、明らかな洋間であるにもかかわらず、壁面など和とも洋とも決めがたい独特な意匠をしている。また、作品の額装には油絵に多いゴテゴテとした装飾過多のものを排し、シンプルな額が多く採用されている。おそらく、満谷自身の好みなのだろう。わたしはつい、下落合界隈を描いた作品がないかどうか、目を皿のようにしてアトリエの壁を眺めてみるのだが、太平洋画会研究所(昭和に入り太平洋美術学校と改称)の盟友だった第三文化村の吉田博Click!とは異なり、なかなか地元の落合風景Click!作品は見つからない。
 芝庭で撮影された満谷国四郎と宇女夫人は、どう見ても父と娘のような風情なのだが、芝庭が広そうなところをみると、いまだ母屋を増築していない「ドロボー事件」が起きたころ、すなわち大正末から昭和初期ごろの満谷邸を写した1葉なのかもしれない。

◆写真上:下落合753番地(のち741番地)にあった、満谷国四郎アトリエの内部。
◆写真中上:上左は1936年(昭和11)の空中写真にみる満谷国四郎邸、上右は1947年(昭和22)の旧満谷邸敷地。下は、1938年(昭和13)の「火保図」に採取された地番変更後の満谷邸。
◆写真中下:左は、谷中天王寺町のアトリエにおける撮影で、右端がこのあと亡くなるすゑ夫人。右は、下落合753番地に建っていた満谷邸の南側芝庭における満谷と宇女夫人。
◆写真下:左は、冒頭写真と同じくアトリエ内部の様子。右は、2006年に創元社から出版された満谷照夫・宮本高明共著『満谷国四郎残照』のカバー表紙。