うなぎついでに、江戸期に滝沢曲亭馬琴Click!によって記録された、めずらしい「大うなぎ」の話を見つけたので書きとめておきたい。うなぎの大型のものは昔から大うなぎと呼ばれるけれど、これは普通のうなぎが成長したわけではなく、日本うなぎ(学名:Auguilla Japonica)とは種類が異なる別ものだ。「かにくい」とか「蛇うなぎ」とも呼ばれる大うなぎ(学名:Anguilla marmorata)は、東南アジアをはじめ琉球弧や黒潮が洗う九州、四国、和歌山、静岡などで獲れたことが記録されているが、いまではおよそ天然記念物に指定されていて禁漁となっている。
 余談だが、現在ところどころに「大うなぎ」料理を食べさせる店があるけれど、この大うなぎは大型の日本うなぎ(Auguilla Japonica)のことで、本来の大うなぎ(Anguilla marmorata)のことではないか、また特別に捕獲許可の出ているエリアの獲物か養殖物、あるいは海外からの輸入物だと思われる。そうでなければ、国や多くの自治体が天然記念物に指定している大うなぎを密漁していることになり、ニホンカモシカの密猟ケースを当てはめるなら、料理店の経営者・料理人も食べた客たちも、全員が逮捕されるだろう。
 さて、おそらく江戸期にも気候の温暖化現象がみられたのか、大うなぎ=かにくいが江戸湾にまで入りこんできて獲れたことがあったようだ。現在でも、伊豆半島沖でエラブウミヘビが見つかるぐらいだから、気候が暖かくなると黒潮にのって、さまざまな魚介類が北上してきたにちがいない。江戸期には・・・というか戦前までは、うなぎは「魚」だと見なされていないので魚河岸では扱われず、うなぎ独自の問屋街(うなぎ河岸Click!)が形成されていた。日本橋小田原河岸(現・日本橋本町1丁目界隈/河岸と銘打ってClick!いるが川辺ではなく街中の問屋街の通称だったと思われる)や千住などが仕入れ先で、明治以降は江戸川(現・神田川)沿いに問屋街Click!が形成されている。現在でも「う」問屋が多かった地域では、うなぎ料理Click!が盛んだ。当時のうなぎ問屋は計り売りをしておらず、ザル1杯の単位で活きたうなぎを卸していた。だから、ザルの中身をよく確かめてから仕入れるのが当り前で、よりサイズの大きなうなぎの入ったザルに、蒲焼き屋の人気が集まっていたようだ。
 
 とある蒲焼き屋の仕入れたザルに、巨大なうなぎが2尾入っていたことから物語がはじまる。店主や息子(養子)は、見たこともない大串ができると喜んだ。当時から、うなぎ好きには「脂が乗って食いでのある大串に限る」とか、「風味は小串のほうが上だ」とか、いろいろとうるさいことを言う連中(れんじゅ)がいたらしい。だから、うなぎ屋は大串ファンにはもってこいのうなぎが手に入ったと考えた。この店の常連に、大串ならカネに糸目はつけないという、妙な蒲焼きヲタクで大店(おおだな)の旦那がいたから、うなぎ屋は大もうけできると思ったのだろう。
 ほどなく、大串好きの旦那が来店し、さっそく大うなぎを料理しようということになったのだが、店主が裂こうとして錐(きり)を頭に刺したとき、誤って自分の手も刺してしまった。手にケガをしたので、しかたなく料理を養子にまかせたのだが、大うなぎは物凄い力で暴れまわりなかなか裂くことができず、若い跡取りもかなり手こずった。腕へ三重に巻きつかれたり、尻尾で脇腹をたたかれたりと、ひどい目にあいながら、ようやく裂いて蒲焼きにすることができた。
 待ちかねている客へ、やっとこさ大串を出すことができたのだが、客は半串ほど食べたところで気分が悪くなってしまった。うなぎ屋が、大うなぎだから大味でうまくないのか?・・・と訊ねると、大串好きな大店の旦那は「死人を焼いたような臭いがする」といって、いま食べたばかりの蒲焼きを吐きだしてしまった。このときから、この蒲焼き屋にはいろいろと怪事が起こり、物語が一気に怪談めいて、大うなぎの“祟り”のような因縁話になっていくのだけれど、おそらくそれらの怪(あやかし)はあとから世間話として語られるうちにくっつけられた、文字どおり“尾ひれ”のような気がする。
 
 曲亭馬琴が、この話を『兎園小説余禄』へ収録したのは、1832年(天保3)11月13日のことだから、実際に起きた大うなぎのエピソードは、それから数年前の出来事だったのだろう。馬琴は、市井で起きたホントの話を採集していると思われるが、当時は怪事ととらえられた出来事の多くは、今日から見れば説明がつきそうなことが多い。まず、江戸期には日本うなぎと大うなぎ(かにくい)とは、まったく別種だとは考えられておらず、通常のうなぎが巨大化したものが大うなぎだととらえられていた。だから、大うなぎが普通のうなぎとは思えない「怪力」を発揮して暴れるのが不思議に思えたのだろうし、それを裂いて蒲焼きにしたら、通常のうなぎとは焼く臭いも、また風味もまったく別もののように感じられたのも不可解だったのだろう。脂肪が多すぎて、さすがの大串好きな旦那も消化できず、気持ちが悪くなって吐きだしてしまったのではなかろうか。
 馬琴は、うなぎ渡世(商売)はたいへんでいろいろあるのだろうけれど、これは実話であっていい加減な「浮説」ではないと締めくくっている。『兎園小説余禄』は、江戸の町中で起きた事実に取材して記録されたもので、それ以前に書かれた『兎園小説』に収録できなかった逸話を集めて編集されたものだ。馬琴の実話をベースにして、のちに岡本綺堂Click!が『魚妖』という小説を書いている。
 
 わたしは、大うなぎ(Anguilla marmorata)の蒲焼きを一度も食べたことがないけれど(多くの地域では食べたら逮捕されるのだろうが)、脂肪が多く大味でマズイのではないかと想像している。おそらく、江戸東京風のしたじベースの蒲焼きClick!という料理法自体が、大うなぎには合わないのではなかろうか。大うなぎが食卓にのぼる東南アジアなどの料理法を、わたしは不勉強で知らない。

◆写真上:戦前に発行された、大うなぎ(Anguilla marmorata)の天然記念物絵葉書。
◆写真中上:左は、早大図書館に所蔵されている滝沢曲亭馬琴の肖像。右は、江戸期の一大うなぎ供給地であり、現在でもうなぎ料理店が多い千住に鎮座する出雲の素盞雄社。
◆写真中下:左は、1790年(寛政2)に出版された『小紋雅話』掲載の山東京伝考案「鰻つなぎ」模様。右は、実際に織られて販売されている「鰻つなぎ」柄。
◆写真下:左は、1852年(嘉永5)に発行された「嘉永版大蒲焼番付」で、江戸じゅうの蒲焼き名店が網羅されている。右は、初代国貞が描いた『流行六花撰』のうち日本橋の「おやじ橋大和田」。