以前、山手線をはさんで下落合の東隣りである高田南町の学習院下で操業していた国産電機へ、池袋上空で撃墜されたB29が墜落Click!したことを記事にした。1945年(昭和20)5月25日の夜半のことで、高田南町と麹町へ墜落するB29の光跡は、小石川の高台からアマチュアカメラマンによって撮影されている。この空襲における米軍の損害は大きく、作戦に参加した250機のうち29機(約12%)が墜落している。だが、下落合の北隣り位置する椎名町(現・南長崎)へ墜ちてきたのは、B29を迎撃した日本の戦闘機のほうだった。
 中沼伸一様Click!は、戦闘機が墜落する様子を、空を見上げながら克明に記憶されているので、夜間ではなく昼間の空襲だったようにも思えるのだが、翌朝、墜落現場まで見にいかれるのでやはり夜間の空襲だったのだろう。同年4月13日夜に旧・神田上水(神田川)から妙正寺川の沿岸、および目白文化村の第一・第二文化村を焼いた山手空襲の第一波Click!か、または5月25日夜に山手一帯が絨毯爆撃を受けた第二波のどちらかだったように思える。
★その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。
 その後も、この地域は繰り返し空襲を受けるのだが、7月以降はあらかたが昼間の空襲であり、しかもB29ではなく硫黄島からの戦闘爆撃機P51によるものがほとんどだ。また、米軍機の来襲にいちいち日本の迎撃戦闘機が飛び立つような余力も、敗戦が近づくにつれてほとんどなくなるので、戦闘機が墜落したのは春から初夏にかけての早い時期の空襲のように思えるのだ。
 では、どうして墜落する日本の戦闘機がはっきりと見えたのだろう。ひとつは、灯火管制が敷かれていたため当時の地上は暗く、米軍機から落とされた照明弾ないしは焼夷弾による火災によって、墜落する機影が明るく照らされていたと想定することができる。もうひとつは、この空襲が5月25日夜半のものであれば、池袋上空で撃墜されたB29が学習院下へと墜落しているので、炎上して墜ちるB29の機体に照らされて、墜落する戦闘機の機影がよく見えた・・・ということも考えられる。すなわち、南長崎へ墜落した戦闘機は、学習院下へ墜落したB29を攻撃する際に被弾したか、あるいは機体ごとB29へ体当たりをしなかったか?・・・という想定も成り立つのだ。
 中沼様が目撃された様子では、片翼をもぎ取られた戦闘機(機種は不明だが「雷電」あるいは「紫電改」だったろうか)は、クルクルと回転しながらゆっくりと上空から墜ちてきた。“局地戦闘機”なので燃料はあまり積んでいなかったのか、墜落の最中も、また墜落後も炎上はしていない。まるでスローモーションの映像のように、片翼になった戦闘機の機体は回転しながら、仲の湯(戦後は久の湯)の煙突のあるあたりへゆっくりと墜落した。翌日、墜落現場を見にいってみると、仲の湯の罐場(かまば)に機体は墜ちていて、パイロットはパラシュートで脱出したのか搭乗してはいなかった。

 
 1944年(昭和19)の秋から暮れにかけ、目白駅から椎名町(現・南長崎)の練馬街道が合流する二叉路の手前まで約1.5kmの区間、目白通りの南側は幅20mにわたって建物疎開Click!が行なわれている。そこから先の目白通りは建物疎開をまぬがれ、小野田製油所Click!などの近代建築は破壊されずに残ったけれど、かわりに繁華な商店街が形成されていた当時のメインストリート、すなわち目白バス通り(南長崎バス通り=練馬街道)の西側が、岩崎邸の手前あたりまで建物疎開で破壊されている。やはり、目白通りの南側と同様、幅20mにわたって商店の建物が引き倒されているのだろう。その際に、映画館「洛西館」や「長崎市場」Click!などの建物は取り壊されたと思われる。そして、広場となった跡地には、次々と町内防空壕Click!が造られていった。
★その後、目白通り沿いの建物疎開は、1945年(昭和20)4月2日から5月17日までの、いずれかの時期に行われているのが判明Click!している。
 わたしは、1947年(昭和22)の空中写真を見て、目白バス通り(南長崎バス通り)の西側はてっきり1945年(昭和20)5月25日の山手空襲で延焼したものとばかり思っていた。確かに、バス通りの西側にも焼夷弾は落ちているのだが、同年3月10日に下町を襲った東京大空襲Click!のように、街全体が焦土と化すことはなかった。特に、バス通りの東側はほとんど空襲の被害にあわず、商店街はそのまま戦後も営業をつづけられた。ただし、バス通り西側の建物疎開でできた広場に掘られた、防空壕のひとつがナパーム焼夷弾の直撃※を受け、一家全滅した被害例があったという。
※実際に被害の処理に当たられた、shiina Machikoさんの叔父様(当時16歳)の証言によると、ナパーム焼夷弾ではなく250キロ爆弾だった可能性がある。詳細はコメント欄参照。

 
 建物疎開で強制移住させられた西側の商店は、戦後になってもほとんど復興せず、中沼様のご記憶によれば、バス通りへもどってきたのはわずか2店舗にすぎなかった。中沼様は、空襲があると上空から降ってくるB29、ないしは迎撃戦闘機の機銃弾の薬きょうを集めるのが楽しみだったそうだ。空薬きょうがバラバラと街中に降りそそぐほど、上空ではB29あるいはP51と日本の戦闘機との間で死闘が繰り広げられていた。わたしの祖父も、撃墜されたグラマンの火薬が抜かれた機銃弾とB29のジュラルミン部品とを、ときどきわたしに見せてくれたものだ。
 戦前は、練馬方面から野菜(主にダイコン)を満載した農家の荷車が、現在の千川通りから南長崎バス通りを抜け、ゆっくりと江戸川橋をめざしていくのどかな風情が見られた。目白通りをまっすぐ東へ進み、目白坂を下って江戸川橋にあった青物市場へ野菜を卸しにいくためだ。空車になった帰路は、子育地蔵があった二叉路から南長崎バス通り(練馬街道)へ入ると、茶店などに入って一服し、通り沿いに開店していた岩崎種苗店Click!で、次季の作付けに必要な野菜の種や苗を仕入れては、荷車は練馬方面へと帰っていった。ダット乗合自動車Click!(1936年からは東環乗合自動車)のお尻に、「岩崎種苗店」の交通広告が見られたのも、ちょうどそのころのことだろう。
 
 でも、戦時中は乗合自動車(バス)のお尻に、そのような広告や看板を掲載する余地などなかった。なぜなら、ガソリンで走る乗合自動車は燃料不足から木炭バスへと変わり、車体のお尻には木炭を燃やしてガスを発生させる、大きな木炭ガス発生装置が据えつけられていたからだ。

◆写真上:戦前に「岩崎種苗店」を経営していた、バス通り沿いの旧家・岩崎家の現状。
◆写真中上:上は、1945年(昭和20)5月25日夜半の山手空襲で想定した、B29と迎撃戦闘機との墜落の様子。東京湾岸の高射砲陣地を避けたのか、B29の編隊は大きく廻りこんで北側から来襲した。下は、当時の迎撃戦闘機で“局地戦闘機”と呼ばれた「雷電」(左)と「紫電改」(右)。
◆写真中下:上は、1944年(昭和19)に陸軍によって撮影された最後の空中写真で、空襲直前の椎名町(現・南長崎)地域をとらえたもの。いまだ建物疎開が行なわれていないので、同年の早い時期の撮影だと思われる。下左は、子育地蔵尊があった二又交番あたりの現状。下右は、空襲の被害をほとんど受けなかった南長崎バス通りの東側に残る近代建築住宅。
◆写真下:左は、東環バスのお尻にみえる「岩崎種苗店」の広告。右は、戦時中の木炭バス。