下落合の寺斉橋北詰めにあったバー「ワゴン」Click!で、檀一雄などとよく飲んだくれていた太宰治Click!の作品に、1940年(昭和15)発行の『新潮』11月号へ掲載された「きりぎりす」という短編がある。画家の夫をもつ妻が主人公の作品・・・というか、家を出ていく妻があきれ果てた夫に宛てて書いた“訣別状”のような体裁の小品なのだが、昭和初期の画壇(太宰にとっては自身のいる文壇)の様子が垣間見られて、けっこう面白い。学生時代に読んでいるのだが、すっかり内容を忘れていたので、“旧かな”の原文で読み直してみた。
 のちに太宰は、たまたま当時千円近くの印税がまとめて入ったので、自分もそのうち「原稿商人」になってしまうとマズイと考え、自身への「戒め」のために書いたのだ・・・と弁解しているが、実際にあった私的な出来事や彼自身の想いを作品に色濃く重ねてるとはいえ、どこかにモデルとなる作家や画家が存在しなかっただろうか? この作品が発表されたあと、現にいろいろな人気作家が同作のモデルだ・・・などと取り沙汰されている。でも、文学の世界ばかりでなく、美術界においても「きりぎりす」状況は、どこにでもありがちなシチュエーションだった。だからこそ、金山平三Click!は文部省を毛嫌いして画壇に背を向け、三岸好太郎Click!は仲間内から「あきらめ」られ、連れ合いの三岸節子からは「うそつき、典型的なうそつきでしょうね」などと言われてしまったのだ。
  ▼
 あなたは清貧でも何でも、ありません。憂愁だなんて、いまの、あなたのどこに、そんな美しい影があるのでせう。(中略) 孤高だなんて、あなたは、お取巻きのかたのお追従の中でだけ生きてゐるのにお気が付かれないのですか。あなたは、家へおいでになるお客様たちに先生と呼ばれて、誰かれの画を、片端からやつつけて、いかにも自分と同じ道を歩むものは誰も無いやうな事をおつしやいますが、もし本当にさう思ひなら、そんなに矢鱈に、ひとの悪口をおつしやつてお客様たちの同意を得る事など、要らないと思ひます。あなたは、お客様たちから、その場かぎりの御賛成でも得たいのです。なんで孤高な事がありませう。そんなに来る人、来る人に感服させなくても、いいぢやありませんか。あなたは、とても嘘つきです。
  ▲
 
 「孤高、清貧、思索、憂愁、祈り、シヤヴアンヌ(19世紀のフランス画家)」などと言われていた、夫のメッキが次々とはがれ、ついには郵便局へせっせと貯金をしてはカネばかり気にする小成金の俗物、画家ではなく芸術とは無縁な「画布商人」と成り下がっていく過程が描かれているのだが、似たような話は美術界とはほとんど縁のないわたしでさえ、このごろときどき耳にすることがある。
  ▼
 昨年、二科から脱退して、新浪漫派とやらいふ団体を、お作りになる時だつて、私はひとりで、どんな惨めな思ひをしてゐた事でせう。だつて、あなたは、蔭であんなに笑つて、ばかにしてゐたおかた達ばかりを集めて、あの団体を、お作りになつたのでございますもの。あなたには、まるで御定見が、ございません。この世では、やはり、あなたのやうな生きかたが、正しいのでせうか。葛西さんがいらした時には、お二人で、雨宮さんの悪口をおつしやつて、憤慨したり、嘲笑したりして居られますし、雨宮さんがおいでの時は、雨宮さんに、とても優しくしてあげて、やつぱり友人は君だけだ等と、嘘とは、とても思へないほど感激的におつしやつて、さうして、こんどは葛西さんの御態度に就いて非難を、おはじめになるのです。世の中の成功者とは、みんな、あなたのやうな事をして暮してゐるものなのでせうか。
  ▲
 
 わたしは、自分ではたいして創造的あるいはなんら生産的な仕事や活動をせず、人の悪口をいう人間が苦手だ。ついでに、「ヒハン」(対置する何ものをも手にせず、対案を提起しえないので批判とは呼べないからカタカナ)や、「ヒョ~ロン」ばかりしている没主体的な人間はもっと苦手なのだけれど、金山じいちゃんClick!の言葉を借りなくても、そのような人物がウヨウヨいそうな美術界らしい。
 自治体による緑地や公園、公的な施設づくりなどでは、往々にして園内や敷地内に彫刻やオブジェが置かれることがある。その制作をめぐって、自治体の担当役人とあたかも数十年来の旧友のように、急に“仲良く”なった彫刻家やインスタレーション作家の話。自治体が美術館を建てると、いままで横柄で自治体レベルの文化事業などまったく見向きもしなかった有名画家が、急に相好を崩して市役所を訪れる話。秋の展覧会シーズンになると、盆暮れでもないのにやたらあちこちへのプレゼントが多くなる画家の話・・・などなど、挙げだしたらキリがないほどだ。
 シルクロードをよく描いた超高名な「画家」がいたが、決して「画家」などではなく周囲から「政治家」、ないしは「政治屋」と呼ばれていたらしいことは、いくら美術界とはまったく関係のない位置にいるわたしの耳にさえ、イヤでもチラホラ入ってきたりする。
 
 別に芸術分野ばかりでなく、人間社会ならどこにでもありそうな「きりぎりす」状況なのだけれど、「おわかれ致します。あなたは、嘘ばかりついてゐました」と、この妻のようにいさぎよく訣別できず、煩悶している芸術家も多いのだろう。もし金山平三がいまの美術界を眺めたら、山形へ「隠遁」するレベルではなく、スペインのアビラ村Click!まで避難しかねないほどの、ひどい状況なのだろうか?

◆写真上:キリギリス。(Cyber昆虫図鑑Click!より)
◆写真中上:左は、1935年(昭和10)10月9日発行の読売新聞に掲載された帝展「第二部会」による公開鑑査。左側に立つのが金山平三で、不透明な密室審査で腐敗と汚職、情実鑑査の温床だった帝国美術院を根底から揺さぶった。右は、大正初期のプレ“じいちゃん”の金山平三。
◆写真中下:左は、1928年(昭和3)に建設された帝国美術院研究所(現・黒田記念館)。右は、帝国美術院(文部省)→帝国芸術院(文部省)→日本芸術院(文化庁)の現状。
◆写真下:左は、1942年(昭和17)に出版された「きりぎりす」所収の短編集『女性』(博文館)。右は、1941年(昭和16)に庭先で撮影された太宰治。