佐伯祐三Click!が、パリ郊外のセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院で衰弱死したとき、親友の山田新一Click!は彼のデスマスクをとるために滞仏中の彫刻家・日名子実三Click!を同行した。でも、日名子は佐伯の痩せこけた死顔を気味悪がって、ついに原型を採取することはできなかった。中村彝Click!の場合は、親友・保田龍門Click!の手によってデスマスクがとられている。
 保田が、彝の死を知って下落合のアトリエへ駆けつけたとき、すでに彝は白木の棺に納められ、遺体の周囲はスイセンやバラの花で埋められていた。1925年(大正14)1月発行の『木星』Click!(第二巻第二号)に掲載された、保田龍門「死面をとるとき」から引用してみよう。
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 水仙や薔薇の高い香に埋まつて、漆黒の髪が垂れ下つた白臘のやうな額が見える。半ば見開いた両眼は生けるもののやうに涼しさを漂へて(ママ)ゐる。延びた(ママ)髯が微かに開いた唇を掩つてゐる。デスマスクをとらうとして、白木の棺の蓋を取つた時、聖者の死顔を見るやうな神々しさに、思はず頭が下がるのであつた。南の日を受けた病室で、白いベツドの中に、いつもあのニコニコとした笑顔と、澄んだ瞳とで喜ばしげに迎へてくれた彝氏は、今同じ面差しで静かに棺の中に眠つてゐるのである。私は顔に垂れ下る髪をな撫で(ママ)上げたとき、指頭に感じる石のやうな冷たさで、はじめて氏の死をまざまざと知ることが出来た。
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 このあと、彼は彝の伸びた髪に油を塗ってクシでとかし、整髪してからデスマスクをとる準備にかかっている。モジャモジャだった髪が、ツヤツヤと光り輝いて整えられたせいだろうか、保田はその様子を湯上りのような風情だったと述懐している。
  
 こうして採取された中村彝のデスマスクは、石膏を流しこまれた原型が今日まで保存されることになった。保田がこしらえた石膏の原型から、いくつかのレプリカが作成されたようなのだが、原型自体は戦争をはさんで長い間行方不明となっていた。ところが、1988年(昭和63)春に水戸の故・中村正Click!宅の蔵から、改めて保田による原型が“発見”されている。そのときの様子を、同年に出版された梶山公平『夭折の画家 中村彝』(学陽書房)から引用してみよう。
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 彝の下落合アトリエ復元建設活動が進行し工事が終ろうとしている矢先、朗報が入る。/彝の本家中村家を継いた(ママ)故中村正宅を「新いはらきタイムス社」の網代茂取締役相談役が尋ね当てたのである。しかも正氏夫人すいさん(八十一歳)から唯一点の遺品であった保田龍門たちがとったデスマスク原型を呈示されたのである。/「日刊いはらき」紙は伝える。第一面のトップ記事。/「子孫が保存していた!」の見出し。/「彝の死後、友人らの協力でとったデスマスク(石こう製)を預かり、自宅の蔵の中に保存していた。しかも蔵の中に入ってからはほとんど人目に触れなかったため、保存状態は極めて良好で六十余年前のものとは思えない(以下略)
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 保田龍門は、上掲の追悼文「死面をとるとき」の中で、自身の肖像画が彝によって描かれる経緯を詳しく記している。彝の『保田龍門像』(1915年)は同年の文展に出品されて入賞し、文部省買い上げとなったが関東大震災Click!で焼失している。当時は、本行寺Click!から南西方向へ200mほどしか離れていない、初音町の霊梅院に住んでいた保田の証言をつづけて聞いてみよう。
 
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 大正四年の夏、谷中初音町の霊梅院に氏が訪ねられた。いつもの優しい笑顔と静かな声の下にも、見のがすことので来ぬ憂鬱と焦慮とが浮んでゐる。新宿の画室を何故に捨てたかといふ事、逃げるやうに都を去つて伊豆大島に渡つたといふ事、孤島の荒い潮風が氏の病を一層重くしたといふ事、周囲の誤解と、愛する者から去つた寂寥とが氏を狂人の様に振舞はせたといふ事----私はそれらを皆後に知つたのである。
 『狂人でない証拠に良い絵を描いて見たい。君の顔を描かせてくれないか。』
 私が初音町の氏の下宿の二階でポーズし始めたのは其日の午後からであつた。真夏の日は部屋に容赦なくさしこんでくる。時雨の様な蝉の声を聞き乍ら、私は氏の凝視の前に坐つた。
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 保田は、同作を自身の肖像画というよりも、当時の中村彝が置かれていた精神状態を全的に反映した“自画像”ではないか?・・・と推測している。髪は乱れ、苦悶をたたえて据わった眼差しをギラつかせながら、苛立たしそうな表情を浮かべている人物は、新宿中村屋のアトリエClick!を出て大島からもどったばかりの彝自身の表情にほかならない・・・と書いている。彝の『保田龍門像』は、文展の締め切りが迫るなか、真夏のほぼ7日間かけて制作されている。
 
 保田の文章を読んでいると、1916年(大正5)に下落合のアトリエが完成したとき、彝の尋常でない喜びようが伝わってくる。相馬夫妻Click!に俊子Click!との結婚を反対され、病状が徐々に悪化するという最悪の状況のなか、彝はアトリエの設計と建設に没頭することで将来への希望をかき立て、かろうじて精神的なバランスを保っていたのかもしれない。アトリエの屋根色にこだわり、濃いオレンジ色のベルギー製瓦を調達したのも、保田によれば彝自身の強い思い入れだったようだ。
                                                (中村彝86回忌)

◆写真上:中村彝が連日通いつづける、「静坐会」が開かれていた雨の本行寺境内。
◆写真中上:左は、死の直後に撮影された中村彝。中は、信州安曇野の碌山美術館に保存されているブロンズ製の中村彝デスマスク。左は、保田龍門がとったデスマスク原型。
◆写真中下:左は、谷中時代の中村彝。右は、震災で失われた中村彝『保田龍門像』(1915年)。
◆写真下:左は、保田龍門『中村彝の死面』(1924年)。実際の遺体とは、顔の向きが逆に描かれている。右は、保田龍門『クリスティーヌの首』(1922年ごろ)。