この夏、下落合の御留山Click!に施されていた、主に出雲神に由来する結界Click!について記事にした。そこには、相馬家Click!とともに将門に関わる「気」流づくりや、「北辰七座」思想による「気」風づくりが工夫されていることにも触れた。江戸東京は出雲神とともに、将門にちなむ聖域や信仰が色濃い街Click!なので、当然、昔から住みにくい人たちもいた。自身の出自から、江戸詰め(国許から江戸藩邸への勤務)になるのを怖れた人々、あるいは幕臣でも将門に関わる社(やしろ)などへ近寄るのさえ恐怖した人々だ。すなわち、将門に敵対した側にいた人々の子孫たち・・・ということになる。彼らにすれば、神田明神が総鎮守の江戸東京は恐怖の街であり、自身がそこで暮らすこと自体が「場ちがい」であり、まったくの「間ちがい」だと感じていただろう。
 幕府の旗本になっていた、佐野右兵衛尉五右衛門もそんなひとりだった。佐野家は、将門を攻めた藤原秀郷(俵藤太)Click!の子孫に当たり、ことさら将門由来の地区や社などには気をつかっていた。佐野五右衛門が御側勤仕(将軍近くに仕え雑用をこなす役人)になったときでさえ、江戸じゅうが沸きかえる「天下祭」のひとつ、神田明神の祭礼には異例の“欠勤”をしている。神田明神は730年(天平3)ごろ、江戸(エト゜=岬)の芝崎村にあった比較的小型Click!の前方後円墳Click!の上に、出雲神のオオクニヌシ(オオナムチ)を奉って建立された社だといわれるが、なんらかの聖域であったのはもっと古くからで、少なくとも古墳期にまで由来がさかのぼれるのだろう。初期の神田明神境内は、現在の大手町にある将門塚Click!の位置におおよそ相当する。
 将門が神田明神の主柱として、オオクニヌシと並び合祀されたのは、鎌倉期が終わるころからなのだが、それ以来、1873年(明治6)の明治政府による“バチ当たり”な「将門外し」から、1984年(昭和59)の主柱復活にいたる100年と少しの例外期間を除き、将門はずっと神田明神の主神でありつづけている。佐野五右衛門が神田明神の祭礼日に欠勤したのは、社から繰り出す山車や神輿が千代田城内へと入り、将軍や幕閣がそれを見物するからだ。佐野は将軍の御側勤仕だったから、出仕すれば将軍の上覧所近くに控えていなければならない。自身の目の前を、オオクニヌシの神輿とともに将門が渡御した神輿が通ることになるわけだから、「どう考えてもヤバイ」と考えたのは無理もなかっただろう。将門による怪事件として記録された物語の詳細は、『耳嚢』で有名な根岸鎮衛の知人のひとり、東随舎の『古今雑談思出草紙』(天保年間ごろ)に収められている。
 
 佐野五右衛門という人は、よほど神田明神の将門がおっかなかったようで、屋敷内の家人全員に神田明神への参詣や祭礼への参加を禁じたばかりでなく、末端の使用人にいたるまで身元調査、つまり将門や神田明神にいっさい関わりのない出自かどうかを、こと細かに調べさせていたらしい。そうまで用心して雇用した家人には、「神田明神の前を通行しない」という念書まで書かせていた。また、神田明神の祭礼日9月15日には、屋敷の前が町内神輿の巡行路になっていたため、当日は門を閉めて家人の出入りをいっさい禁じて蟄居していた。やむをえず仕事で登城する場合は、途中で神輿や山車に遭遇するとマズイので、いまだ祭りがスタートしない夜明け前の七ツ(午前4時ぐらい)に出仕することにしていた。ところが、これだけ用心し気をつかって暮らしていた佐野五右衛門なのだが、「祟り」を避けることができなかった。
 千代田城に出仕する御番役(城の警備役人)に、小日向水道町Click!に住む神田織部という人物がいた。神田の別姓は相馬で、家紋も将門と同じ「繋馬(つなぎうま)」であり、神田家は将門相馬家を祖先に持つ子孫のひとりだった。佐野五右衛門は、いまだ年若い後輩で好人物の神田に気を許したのか、小日向の神田家を訪ねては酒を酌みかわす間柄となった。ある日、ふたりは連れ立って、江戸川(現・神田川)をはさんで南のバッケ上にある赤城明神へ出かけることになった。参詣が目的ではなく、社前に見世開きしていた茶屋で女と遊ぶのがめあてだった。でも、佐野は下城したまま裃袴姿の身なり(仕事着)だったので、神田織部から普段着の羽織を借りていくことにした。
 
 茶屋に上がり、ふたりが女たちを相手に酒を飲んでいると、急に佐野五右衛門の様子がおかしくなった。大汗をかいて苦しみだし、高熱を発してそのまま意識不明となってしまった。茶屋では大急ぎで医者を呼び手当てをしたが、まったくよくなる様子が見えない。万が一、岡場所で旗本が急死したなどということになれば大ごとになるので、神田織部は湯島にある佐野五右衛門の屋敷まで駕篭にに乗せて送りとどけた。事情を聞いた佐野家では大騒ぎとなったが、神田織部は明日にでもまた見舞いに来ようと、長居をせずにそのまま小日向へ帰った。
 翌日、神田織部が湯島の佐野家を見舞うと、なんと昨夜は意識不明だった佐野五右衛門本人がケロッとした顔で出迎えた。神田が驚いて具合いを訊ねると、神田家の家紋(繋馬紋)が入った羽織を脱ぐと、急に熱が下がり意識もハッキリして全快したのだという。ていねいに折りたたまれた羽織を前に、「千年も昔に起きたことが、いまだ尾を引いて子孫にまで祟るとは」と、ふたりは顔を見合わせてしまった・・・というのが、実際に起きたエピソードの経緯だ。
 ふたりは自分たちの祖先のことを、佐野五右衛門はことさら強く意識し、神田織部は「そう言われてみれば確かに・・・」というぐらいの感覚でいたようなのだが、将門の子孫に気を許したがため「祟り」に遭ったのだと、佐野家の側では明確に解釈されている。わたしの感覚からすれば、わざわざ神田家から繋馬紋の入った羽織を借りて着るより前に、小日向水道町に建っていた神田家の屋敷を訪れたときから、体調がおかしくならなければツジツマが合わないような気もするし、非常に用心深く気が小さそうな佐野五右衛門が、なぜ易々と神田家に気を許したのかもよくわからない。
 
 今日的な解釈をすれば、神経質そうな佐野五右衛門が岡場所へ出かけた罪悪感と、気持のどこかで神田家の出自を気にしつつ、ふだんから将門の「祟り」を心配しすぎるあまり自意識過剰となっており、赤城社前の茶屋でとうとう自己暗示にかかって自ら体調を崩した・・・ということになりそうなのだけれど、さて、繋馬紋の羽織を着ると再び急に体調が悪くなるか否か・・・というような実験がなされたかどうかまでは、その後の消息が書かれていないので不明だ。

◆写真上:小日向の神田織部屋敷の近くに建ち、出雲神タケミナカタを奉る旧・上水端の諏訪社。
◆写真中上:左は、尾張屋清七切絵図の1852年(嘉永5)版「礫川牛込小日向絵図」にみる小日向水道町の神田邸。右は、同じく1861年(万延2)版「小石川谷中本郷絵図」にみる湯島の佐野邸で、2軒見えるが町内神輿の巡行路に当たりそうなのは南側の佐野邸だろう。
◆写真中下:左は、佐野五右衛門屋敷があった湯島界隈。右は、神田家の家紋だった繋馬紋。
◆写真下:左は、江戸東京のカナメのひとつ神田明神社。右は、現在は地元の地域活動の拠点ともなっている神楽坂の赤城明神社。