新年、あけましておめでとうございます。いつもお読みいただき、ほんとうにありがとうございます。本年も江戸東京地方に、あるいは目白・落合地域にちなんだ、めずらしい話、意外な話、怖い話、美しい話、懐かしい話、面白い話、つい笑ってしまう話などとっておきの物語をたくさん書いていきたいと思いますので、Chinchiko Papalogをよろしくお願いいたします。年頭の第1回めの記事は、目白通りを俥(じんりき)で走りぬけ、ダット乗合自動車のバス停「文化村」Click!=目白文化村Click!近くのバス通りに開業していた、長崎の映画館「洛西館」へとやってきた岸田劉生の物語から・・・。
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 1924年(大正13)の夏、岸田劉生Click!は関東大震災のあと藤沢Click!より転居していた京都から、東京へこの年二度めの帰省をしている。このサイトでもご紹介した、 「ばけもののはなし」Click!をちょうど執筆中のころで、『改造』への掲載と原稿料の前借り、慶應大学での「美術講習会・教育実際家及び美術研究者の為に」の講演、草土社仲間と展覧会などの打ち合わせ(=飲み会)などが、帰省のおもな目的だった。同年8月3日の午後8時45分に京都を発ち、翌日の午前9時には東京駅へと着いている。劉生としては、馴れない酷暑の京都を抜け出し、知り合いへの借金がてら、少しはマシな東京ですごしたかったのだろう。
 ちなみに、劉生の日記を読んでいると、下町(銀座)生れの彼には京都の水も人情も風俗も習慣も、まったく合わなかったことがうかがわれる。大震災でやむをえず引っ越した彼だが、京都に住みながら「京都人とは付き合うのをよそう」などと書いているのが、おかしくて笑ってしまう。
 さまざまな用事をこなしながら、劉生は8月15日に目白へとやってきた。目白通り沿いには、雑誌「白樺」Click!時代からの知り合い、あるいは草土社Click!の画家仲間が住んでいたからだ。代々木在住のころから、劉生はちょくちょく目白を訪れていると思われ、犬猿の仲であるアトリエを建てて間もない中村彝Click!を訪ねた可能性があることも、以前記事Click!にしている。また、目白通り沿いのお宅に、「麗子像」が眠っていたこともご紹介Click!した。
 8月15日は、劉生にとってまったくついていない1日だった。早朝の3時から、大きめの地震によって眠りを妨げられている。まだ関東大震災から1年もたっていないころのことで、ことさら敏感になっていたのだろう。おカネがなかなか思うように入ってこないので、友人たちから借金をしようとするがままならず、改造社へ原稿料の前借りを頼みに行くのだが、この日はあいにく社員全員が印刷所へ校正に出向していて留守だった。そして思い立ったのが、長崎村荒井1801番地に住んでいた仲間の河野通勢Click!を訪問することだった。ちなみに長崎1801番地は、1925年(大正14)1月16日現在で確認できる河野の住所であり、1924年(大正13)の夏はいまだ長崎村荒井1876番地、すなわち目白通り北側の下落合に接した、現在の「目白の森」公園あたりに住んでいたのかもしれない。
 
 劉生の日記で、なにか困ったことや心配事が発生すると、そのつどまるで口癖のように「神よ御守り下さいまし」と繰り返し記しているのが、とても興味深い。気が強くケンカっ早(ぱや)くて、すぐに人を殴る傲岸な性格Click!だと思われがちな劉生なのだが、日記をていねいに読んでいくと、彼の別の側面(下町人としての人情や機微)が垣間見えて面白い。もちろん、あちこちで麗子もまじえて雲虎Click!(kumotora)の臭い話を、うれしそうにしているのは相変わらずなのだが・・・。では、山手線・目白駅を降りた劉生が、目白通りを西へ俥(じんりき)で飛ばしてやってきた、1924年(大正13)8月15日(金)の様子を、『岸田劉生全集・日記』(岩波書店/1979年)から引用してみよう。
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 改造へ行つたら社長其他皆、牛込の秀英社へ校正に行つてゐる由、がつかりする。それから河野通勢を訪問する事にし山手線にて目白迄 俥にて一寸わからぬ道をやうやく探しあてたら留守 隣りの子に聞いたら近くの洛西館といふ活動へ行つたといふので俥で行つて探したが此処にも居ず、又河野へ帰つたがまだ帰つてゐず、今日は実に運のわるい日也。すつかりいやな気持になり、電車にて、東京駅迄、食堂にて食事をし俥にて原田に帰つたら・・・
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 このとき、目白駅前はどのような様子になっていただろうか? 「公式」記録では、同駅は1919年(大正8)に橋上駅化されたことになっているが、1920年代になっても目白通りを北に見上げる金久保沢の改札Click!を利用していた、下落合の画家たちをはじめ目白駅を利用した人々の記録や証言があちこちに残っている。橋上駅舎がハッキリと確認できるのは、1925年(大正14)2月発行の「商工地図」Click!に掲載された、完成して間もないと思われる目白駅の姿が最初だ。
★その後、目白駅の橋上駅化は1922年(大正11)と判明Click!している。
 
 俥に乗った劉生は、おそらく目白通りを走りながら、中村彝アトリエClick!のほうをニラんでいたかもしれない。でも、目白中学校Click!や一吉元結工場Click!、目白福音教会Click!などが建っていて、濃いオレンジ色の屋根は見えなかっただろう。この日、非常に機嫌が悪かった劉生は、「草土社展をボロクソにいいやがって、バッカ野郎!」とかなんとか、俥に揺られながらつぶやいただろうか? 目白通りを西進する劉生は、当然、すでに建っていたのちに知り合いとなる曾宮一念Click!アトリエや、渡仏中で留守の佐伯祐三Click!アトリエをかすめていたことになる。
 そして、わかりにくい道に迷いながら、長崎1801番地の河野通勢宅を訪ねてみると留守だった。目白バス通りClick!沿いの映画館「洛西館」Click!へ出かけているのを聞いた劉生は、再び俥をひろって向かうが、そこにも河野はいなかった。この時点で、たぶん劉生はカンシャクを起こして、こめかみに青筋を立てただろう。洛西館の前で、ダット乗合自動車Click!が立てるホコリをかぶりながら、ステッキを振りまわして怒っているオジサンを見かけたご記憶のある方は・・・、たぶんもうおられないだろう。w 劉生を乗せた車夫は、かなりおっかなかったのではないかと思われる。このあと、腹を立てた劉生は東京駅までもどってレストランで食事をし、滞在先の原田家へともどるが、家人が誰もおらずに締め出しを食らってしまう。隣家の2階の窓から、ようやっと原田家の2階へと侵入するのだけれど、もうそのころには、劉生は完全にキレていただろう。
 翌8月16日(土)は、劉生のカンシャクをなだめるためにか、友人たちは「うなぎ」をご馳走したり、「ときわ座」へ女団七の芝居を観にいこう・・・などと誘っている。夕方になって木村荘八Click!の家へ寄り、清宮彬とともに再び山手線に乗って、気を取りなおした劉生は目白駅へとやってくる。
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 木村へ帰り余は河野の家に行く。省電にのる。河野へは清宮も同伴也。目白にておりて少し歩いたら尾高に会ふ。尾高は今日日光より帰り、木村へ行つたら余が河野へ行つたからとて来た由、よく会へてよかつたと思ふ。河野の中(うち)は井戸が枯れて水きゝんにて近の親類にてもらひ水の由。河野は家のカギをとりにそつちへ行つたがぢき帰つて来た。妻君は家で知らずに寝てゐた。木村 村田もあとから来、いろいろ画など出してみたり話す。河野の近作石版画中々よろし。
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 少し機嫌がよくなったらしい劉生は、この夜、長崎の河野通勢宅へ泊まっている。


 最後に正月らしく、1924年(大正13)1月1日(火)の劉生日記から引用してみよう。
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 今日は元旦、大正十三年、千九百廿四年の春を迎へる。年頭に当つてこの年の幸運とよき生活を祈るものだ。余等一家、兄弟姉妹たち妻の一家友の一家凡ての人々の上に長寿と健康と平安と幸福と無事とをひたすらに祈る。神よ守り給へ。床の中にて少しばかり来た年賀状や新聞をみる。麗子の元気な声が聞えるので床の中に呼び入れ長うたなどうたはせる。可愛き奴也。余は卅四歳家内は卅三、照子が廿九歳麗子は十一歳・・・
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 麗子Click!が恥をかかないよう、長唄Click!のひとつも習わせていたのが、いかにも下町・銀座Click!の劉生らしい。布団の中で、麗子の唄声を聴いている劉生は、幸せいっぱいの正月を迎えていた。

◆写真上:長崎4102番地にあった映画館「洛西館」で、昭和初期の正月の記念撮影とみられる。洛西館の向かって右隣りには、昭和10年代に入ると長崎市場Click!の西洋館が建設されている。
◆写真中上:左は、長崎村荒井1876番地にあった自宅の次に河野通勢が住んだ長崎村荒井1801番地で、いまの銭湯「五色湯」のあたり。右は、バス通りに面した洛西館跡の現状。
◆写真中下:左は、長崎村を転々としていた河野通勢。右は、岸田劉生『自画像』(1914年)。
◆写真下:目白駅から洛西館まで、目白通りを俥で走る岸田劉生の往路(上)と復路(下)。ww