国立公文書館に保存されている、陸軍省関連の資料を調べていると、西武鉄道に関するいろいろな面白いことがわかる。西武電鉄の線路を敷設する工事の認可をめぐり、西武鉄道と鉄道省そして陸軍省(省の本庁-各部局-参謀本部)との間で、ほとんど「あ・うん」の呼吸のようなやり取りが見られる。たとえば、1926年(大正15)5月4日に鉄道省から陸軍省へ提出された審案(稟議)、「西武鉄道工事施工ノ件」(壱第八六〇号)を見てみよう。
 ちなみに、この稟議に付帯された西武鉄道による申請書類には、高田馬場駅Click!は「未設」(未だ設置予定なし)となっており、必然的に起点(終点)が下落合駅だったことを示唆する工事仕様書が残存している。同書類には、西武鉄道による工事計画書の添付もないし、井荻~高田馬場(実質は下落合)間の正式な路線予測図も付随していないのだが、この時期の図面こそが先にご紹介したマイクロフィルムに残る、下落合駅あたりで線路が終わっている路線予測図Click!の可能性が高い。そして輪をかけて驚くのは、この稟議の決裁スピードなのだ。
 1926年(大正15)5月4日に、鉄道省の青木周三次官から陸軍省の津野一輔次官へとどいた、工事実施に対する「異存の有無」確認の問い合わせに対し、翌日には各部局への確認を終え、数日で次官決裁をしているという信じられないような超スピード稟議なのだ。
 具体的に書くと、5月4日(火)に鉄道次官からとどいた問い合わせに対し、陸軍省では小林という審案筆記者が即日稟議書類を起こして、同日の午後にはすでに陸軍省主務課より工兵課へとまわり、工兵課では翌5月5日(水)の朝イチ(午前9時のタイムスタンプ)に建築課および参謀本部第三部へ稟議をまわして、その日のうちに両部局から「意見無之」の決裁をもらい、おそらく翌5月6日(木)の早い時間には陸軍省の主務課長のもとへ書類がもどってきていると思われる。そして主務局長(1名)から主務副官/官房主計(3名)、高級副官(1名)、そして最終的には委任印を押した陸軍次官まで書類を上げ、日曜日をはさんで翌週の5月11日(火)には、「異存ナシ」の回答書(おそらく小林という審案筆記者の再作成)が、陸軍省から鉄道省の青木次官へと返送された。

 広域LANやVPNがすみずみまで普及し、ネット決裁が日常化している今日なら、別に不思議でもなんでもない稟議スピードだが、これは大正時代に行われた稟議なのだ。あまりにもケタ外れで速すぎる。陸軍省では、この稟議書類の回覧だけのために専任担当を選び、審案書片手に各部局や参謀本部を駈けまわらせ、担当はその場で決裁書類ができるのを「まだかなまだかな~」とジリジリしながら待ち、それを受け取るや否や別の部局へ赴き・・・というような手順しか考えられない処理のしかただ。でも、そのようなシチュエーションはありそうもない想定なのだが・・・。
 このような、めちゃくちゃスピーディな稟議決裁が可能だったのには、ふたつほど理由が想定できる。ひとつは、井草から下落合までの線路敷設工事が、陸軍の鉄道第二連隊によって進められているため、西武鉄道がらみの工事書類は各省庁間で最優先かつスルーパスだったことが考えられる。つまり、書類の形式や体裁さえ整っていれば、陸軍省-鉄道省-西武鉄道の間で交わされる工事書類が、ほとんど右から左へそのまままわされていた可能性だ。
 もうひとつの理由は、記載されている手書きの日付やタイムスタンプで、この書類が実際に稟議へかけられていないのではないか?・・・ということ。換言すれば、あと追いで作成された「存在していればよい」アリバイ的な書類ではないか?・・・という可能性だ。西武鉄道の井荻~下落合間は、当初から陸軍省による線路敷設マターであり、現実の施工者は陸軍省工兵課の鉄道第二連隊だ。だから、こんな書類が存在すること自体が白々しいし、陸軍省が同工事の主導権をにぎっていたとすれば、あらかじめ書類を即日回覧すること、あるいはのちのち必要な時期を見はからって書類を「整える」ことを、鉄道省や西武鉄道へ要請していた可能性さえ考えられる。
 もし後者のケース、すなわちアリバイ作り的な稟議書類だとしたら、津田沼の鉄道第二連隊による敷設工事はすでに開始されており、追いかけて日付をさかのぼらせるような小細工までし、大急ぎで整えられた書類なのかもしれない。だからこそ、超スピード稟議が「可能」だったともいえそうだ。なぜなら、西武鉄道が提出したとされる書類には、免許状の日付も工事開始日の記載もなく、すべてが空欄のままだからだ。役所の公文書としては、きわめてズサンな内容となっており、このような不備な書類が大手をふって各省間を行き来し、しかも信じられないようなスピードで決裁されていくのは、そこに陸軍省の強い意向が反映されていると解釈せざるをえない。

 
 ちなみに、同時期の同じような稟議(審案)の決裁リードタイムを確認してみると、速いものでも数週間、遅いものだと数ヶ月かかることも別にめずらしくはなかった。だから、よけいにこの稟議の“異常”さ、“特異”さが目立ってくるのだ。おそらく、井荻~高田馬場(実質は下落合)間の工事に関する主導権は、完全に陸軍の工兵課が掌握しており、鉄道省と西武鉄道は「言いなり」になって書類を用意し、つど回覧・捺印していただけなのではないだろうか?
 もうひとつ、面白い公文書が残っている。西武電車が、当初は下落合駅を起点(終点)Click!に開業し、高田馬場仮駅Click!を大急ぎで設置したと思われるころ、陸軍省では1927年(昭和2)に「軍需調査令」にもとづき、開業したばかりの鉄道会社へ各種書類の提出を求めている。軍需調査令とは、もちろん軍需物資や人員の輸送に関する情報を、陸軍省が把握しておくために発令されたものだ。この調査では、鉄道各社へさまざまな書類の提出が求められているのだが、宍道湖の北湖畔を走る出雲~松江間の一畑電鉄(島根県)とともに、西武鉄道も同年の最後に調査されている。
 ところが、西武電車に関しては、東京府下の重要な輸送ルートのひとつだと思われるにもかかわらず、他社に比べて提出書類がきわめて少ない。他の首都圏における鉄道会社が、多数の書類提出を求められているのに対し、西武鉄道が提出した書類はわずか3種、すなわち「様式廿十二号票乃至十七号票」(6枚)、「列車運行図表(付列車運転時刻表)」(1枚)、「各駅旅客貨物発着及通過数量図表」(2枚)の、たった9枚だけなのだ。陸軍省の調査にしては、あまりにおざなりな書類収集のしかたなのだけれど、おそらく西武鉄道が工事の段階から同省へ詳細な資料をどっさり提出していた、あるいは鉄道第二連隊の工事により陸軍省工兵課が設計図面などの詳細書類をすでに入手・保存していたから・・・と考えると、すべてのツジツマが合ってくる。

 
 いや、さらに突っこんで考えれば、これら設計図面や詳細な仕様書(少なくとも線路敷設や設備に関する書類)は、西武鉄道によって作成されたものではなく、工兵課と鉄道第二連隊が工事にかかる際、実は自分たちで設計・作成しているのであり、すべての図面や書類はすでに省内へ収集・保管済みだった可能性さえある。それは、下落合駅を終点とする軍需物資の調達輸送を、あらかじめ開業前に行なっていたことを示唆すると同時に、すでに軍需輸送の実績がある鉄道なので、改めての詳しい調査が不要だった・・・と解釈することもできるのだ。
 こののち、西武鉄道は「鉄道延長敷設」に関する請願にもかかわらず、鉄道省を介さずに陸軍省と直接やり取りをしはじめるようになる。鉄道省は“中抜き”状態のまま、西武鉄道と陸軍省との交渉のなりいきを追認するように、形式的な免許状を発行している。その経緯をみても、西武鉄道と陸軍省との関係が異常に“密”だった様子がうかがわれるのだ。

◆写真上:神田川と妙正寺川が落ち合う地点を走る、西武電鉄(現・西武新宿線)の現状。手前に見えているのが、1930年(昭和5)7月に氷川明神前から西へと移動した下落合駅Click!。目白崖線沿いにはグリーンベルトが見えているが、おとめ山公園の拡張でさらに緑が増えるだろう。
◆写真中上:1926年(大正15)5月4日に鉄道次官・青木周三から陸軍次官・津野一輔あてにとどいた問い合わせを、即日審案を起こして各部局へまわし、翌5月5日の午前9時に工兵課から参謀本部と建築課へ送付して即日決裁を受けている、驚異的なスピードの陸軍審案(稟議)書。
◆写真中下:上は、西武鉄道から提出された線路敷設の工事仕様書で、高田馬場駅は「未設」となっており下落合駅がこの時点では実質の起点(終点)だったことがわかる。下左は、工兵課からまわされて即日決裁している建築課と参謀本部第三部の「意見無之」の確認書。下右は、陸軍省工兵課による5月5日午前9時のタイムスタンプと建築課による同印の拡大。
◆写真下:上は、1927年(昭和2)末までに行なわれた軍需調査令にもとづく鉄道調査報告書。下左は、当時は東洋一だった大久保射撃場Click!(1927年竣工)と同時に、大量のセメントおよび玉砂利の輸送が必要だったと思われる、戸山ヶ原Click!東端の陸軍東京第一衛戍病院(戦後は国立東京第一病院)の全景で、右上に見えているのが陸軍軍医学校。昭和の最初期に着工し、射撃場に次いで1929年(昭和4)に竣工している。下右は、病院敷地内に現存するセメント塀と玉砂利の様子。