「比翼塚」という言葉が、いまでも残っている。好きあって死んだ男女や、仲のよかった夫婦(めおと)を合葬した墓あるいは記念碑をそう呼ぶのだが、全国にはあちこちに比翼塚が築かれている。昭和初期に心中ブームを巻き起こした、大磯の「坂田山心中」でも比翼塚は建立された。(鴫立庵に移設されているようだ) いまでも墓石屋さんのメニューには、夫婦のみの埋葬希望者のための商品「比翼塚」を見かけたりする。比翼塚ブームが起きたのは江戸期だと思われるが、中でももっとも有名な比翼塚のひとつが、目黒不動前にある平井権八・小紫ふたりのものだろう。
 鳥取池田藩士・平井正右衛門の嫡子だった平井権八(ごんぱち)は、父親の同僚を殺害して脱藩し、鳥取から江戸へと逃げてくる。殺害の原因は、父親が飼っていたイヌをけなされ家柄を侮蔑されたから・・・というものだったらしいが、剣の腕に自信があり血気さかんな権八には許せなかったのだろう。江戸へ逃亡してきた権八は、浅草の大川端あたりで辻斬りや強盗をつづけ、吉原へ通いながら遊女・小紫(こむらさき)と抜きさしならない深い仲になってしまった。しじゅう小紫に逢いたくなるため、権八は以前にも増して辻斬りや強盗を繰り返していく。
 そのうち、目黒不動近くの東昌寺の僧・随川(ずいせん)と知りあい、寺内にかくまわれるようになってから(そのころには町奉行所の手配がまわり寺へと逃げこんだのだろう)、おそらく仏教の教義ともども熱心に諭されたらしく、権八は改心してそれまでの行状を深く反省している。住職から尺八を習い、虚無僧になって故郷の鳥取へ帰省するのだが、すでに父母は死去したあとだった。無常感をおぼえて観念したのか、権八はほどなく江戸へともどり奉行所へ自首している。
 平井権八は1679年(延宝7)に鈴が森で処刑され、師事した随川和尚のいる東昌寺に葬られるのだが、ほどなく吉原を抜け出した小紫が、彼の墓前であと追い心中をしている。目黒不動前の比翼塚は、実際に起きた哀話にもとづきふたりのために、おそらくいずれかの芝居連の連中によって建立されたものと思われるが、いまでも香花が絶えないのは、4代目・鶴屋南北による『浮世柄比翼稲妻(うきよづか・ひよくのいなづま)』の1場面、「鈴が森」の人気が高いからだ。
 大正末まで「芝居連」の連中(れんじゅ)が、東京には数多く存在していたのを岸田劉生Click!が記録している。劉生は、連中を通じ芝居のチケットを入手していたため、芝居小屋や歌舞伎座から手拭いなどの記念品をもらって喜んでいた。日本橋では、贔屓(ひいき)連中として「魁(さきがけ)連」などが知られているけれど、劉生はどこの連に属していたものだろうか。薬研堀Click!近くの浜町Click!に住む友人からチケットを送ってもらっていたので、親しい木村荘八Click!のことなども考慮すると、故郷の銀座Click!ではなく日本橋のいずれかの連中だった可能性が高い。
 余談だけれど、正月に国立劇場でかかった新春歌舞伎、尾上菊五郎による『四天王御江戸鏑』を観ていたら、いきなり囃子方が16ビートを刻みはじめたのには呆気にとられ、耳を疑ってしまった。w わたしは芝居をけっこう観るけれど、前代未聞の出来事だ。将門相馬家(相馬太郎良門)がらみの芝居で、幕ごとに時代物と世話物が入れ替わる仕立ても面白く、仲(なか=新吉原)の茶屋で16ビートの演奏に合わせ、大勢の禿(かむろ)姿の少女たち=「AKB48」が飛び出してきて踊りまくったのには、ビックリを通りこしておそれ入ってしまった。ww お歳を召した方は、まったく聴き慣れない囃子方の曲ともども、舞台上でなにが起きているのかわからない人も多かったのではなかろうか?
 
 さて、歌舞伎では平井権八は「白井権八」、吉原の遊女・小紫は「吉原仲之町の三浦屋・小紫」となっており、文政年間(1820年代)に作られた芝居なので舞台はいまだ江戸でなく、鎌倉Click!で起きた出来事ということに置き換えられている。また、実際の事件にはなんの関わりもない、浅草花川戸に実在した親分の幡随院長兵衛Click!が登場し、ハッキリいって実話の原型をまったくとどめないほどの、奇想天外なストーリー仕立てとなっている。同じく、四ッ谷で起きた事件の原型をまったくとどめていない、目白が舞台の『東海道四谷怪談(あづまかいどう・よつやかいだん)』の原作者、四世南北Click!の作品らしいハチャメチャぶりの筋書きなのだ。
 この芝居、いまでは全幕が上演されることなどまずないけれど、なぜかひと幕の「鈴が森の場」だけは、頻繁に舞台へかかっている。それは、並木五瓶が1803年(享和3)に中村座のために書き下ろした、『幡随長兵衛精進俎板(ばんずいちょうべえ・しょうじんまないた)』に登場する「鈴ヶ森」の人気がことさら高かったせいで、のちに書かれた『浮世柄比翼稲妻』でも同場面が踏襲され、両芝居の場面同士がみごとに習合してしまったからだろう。
 国を出奔して江戸へとやってきた白井権八が、鈴が森あたりで雲助の駕篭屋たちに取り囲まれるのだが、腕におぼえのある剣でそれらをひとり残らず斬り伏せてしまう。端で一部始終を見ていた幡随院Click!長兵衛が、権八を思わず呼びとめるという有名なシーンだ。そして、この場面は『浮世柄比翼稲妻』や『幡随長兵衛精進俎板』という芝居名で上演されることなく、単に『鈴ヶ森』あるいは『鈴森対澪杭(すずがもり・ついのみおぐい)』として、あっさりとひと幕のみで終わってしまう。1954年(昭和29)に「劇評」編集部により出版された、『芝居せりふ集』(第一書店)から引用してみよう。
 
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 長兵衛 お若えの、お待ちなせえ(やし)。
 権 八 待てとお止(とど)めなされしは、拙者が事でござるかな。
 長兵衛 さやうさ、鎌倉方の御屋敷へ、多く出入の私が商売それをかこつけ有やうは、遊山半分、江の島から、片瀬へかけて思はぬひま入り、どうで泊りは品川を、川端からの戻り駕篭、通りかゝつた鈴が森、お若えお方のお手の内、あまり見事と感心いたし、思はず見惚れて居りやした。お気遣えはござりません。まアお刀をお納めなせえまし。
 権 八 こぶしも鈍き生兵法、お恥しう存じまする。
 長兵衛 お見受け申せば、お若えのにお一人旅でござりまするか、シテどれからどれへお通りでござりまする。
 権 八 御親切なるそのお言葉、御覧の通り拙者めは、勝手存ぜぬ東路へ、中国筋からはるばると、暮れに及んで磯際(いそぎわ)に、一人旅かと侮つて、無体過言の雲助ども、彼奴等は正しく追落し、命をとるも殺生と、存じたなれどつけ上り、手向ひ致す不適なやつ、刀の穢れと存ずれど、往来のものゝためにもと、よんどころなくかくの仕合(しあわせ)、雉子も啼かずば討たれまいに、益ない殺生いたしてござる。
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 舞台の大道具には、「南無妙法蓮華経」と彫られた鈴が森刑場の大碑が用いられるが、現在の刑場跡にも同じ江戸期の石碑が実際に残っている。戦時中まで、京浜急行に「鈴ヶ森」という駅があったそうだが、東京湾を一望できたため間諜(スパイ)防止のため廃駅となり、もちろんわたしは知るよしもない。鈴が森刑場跡の一部は、第一京浜と旧東海道にはさまれた三角の緑地となって残り、さまざまな慰霊碑や処刑に用いられた石材なども現存している。でも、いまでは海浜の品川区民公園や「しながわ水族館」など、大森海岸としてのイメージが強いだろうか。ここ大森海岸の一帯も、明治期から大正期にかけて、東京郊外の別荘地として拓けていった土地柄だ。

 「雉子も啼かずば討たれまい」の一節は、まさに権八当人にあてはまる言葉で、強盗や辻斬りをしてまで吉原通いなどせず、誠実で地道に暮らしていれば、江戸でもきっといいことのひとつぐらいはあったかもしれない。破天荒に生きて短い一生を張るのがカッコいいとされる、無頼奴(やっこ)の時代はもう少し先なので、鳥取からやってきた平井権八はそんな時代の魁(さきがけ)だったのだろうか。

◆写真上:目黒不動尊(瀧泉寺)の門前にある、平井権八と小紫の比翼塚。陰惨な事件や出来事が、木札に「江戸情緒」と書かれてしまうところに350年の時の流れを感じる。
◆写真中上:左は、ほの暗い目黒不動の階段。右は、独鈷滝に鎮座する剣呑(けんのみ)龍。
◆写真中下:左は、時代が少し異なる無頼同士が顔見世の国芳『白柄十右衛門と白井権八』。右は、1950年(昭和25)ごろに撮影された鈴が森刑場跡の供養碑。
◆写真下:9代目・市川海老蔵の白井権八(左)と、初代・中村吉右衛門の幡随院長兵衛(右)。