国立公文書館の陸軍資料には、1926年(大正15)3月31日に西武鉄道が陸軍省へ提出した「請願書」(西鉄第七九九号)、陸軍省が作成した稟議書類(審案・壱第六八一号)が保存されている。高田馬場駅が正式に開業したのち、いわゆる西武電車を「地下鉄」化して陸軍用地の地下を突っ切り、早稲田大学付近の地下駅へと乗り入れる計画Click!だ。
 まず、同年3月末ごろの状況から見てみよう。この年の5月には、陸軍鉄道第二連隊が施工する井荻~高田馬場間(実質は高田馬場駅は未設で下落合まで)の線路敷設工事免許が下りるのだが、敷設工事はすでに陸軍の手によって進められていたかもしれないことは前回の記事Click!にも書いた。この時期、西武電車の高田馬場駅を山手線・高田馬場駅の西側に設置するのか、それとも東側Click!に設置するのかいまだに最終決定していないことは、上記3月31日付けの西武鉄道による請願書に添付された「参考図」でも明らかだ。西武高田馬場駅の位置は描かれておらず、早稲田へと向かう地下鉄道の計画線は途中からはじまっている。
 西武鉄道の社長・指田義雄から、陸軍大臣・宇垣一成あてに出された「鉄道敷設ニ要スル大久保射撃場被弾地及近衛騎兵連隊北側築堤地下使用願ノ件」(西鉄第七九九号/請願書)は、1926年(大正15)3月31日に提出された。西武鉄道の交渉は、この時点では陸軍省と直接なされており、鉄道省が丸ごとスルーされてしまっている点に留意したい。それは、トンネルを掘って地下を使用する敷地が、戸山ヶ原Click!に展開する陸軍用地の内部であり、鉄道省の管轄外のせいもあるのだろうが、通常なら民間企業である私鉄としては鉄道省を介して陸軍省と交渉するのが筋の案件ではないだろうか。鉄道省の存在が影もかたちもなく、“中抜き”にされてしまっているのは、それだけ西武鉄道と陸軍省との関係が密だったことをうかがわせる。

 この請願を受けた陸軍省では、「鉄道敷設ニ要スル陸軍用地々下使用ノ件」(壱第六八一号)と名づけた稟議書(審案)を起こして、さっそく4月2日に歩兵課、4月5日に騎兵課、4月7日に工兵課、少し遅れて5月1日に軍事課へと回覧して「異存の有無」を確認し、5月19日に省内で意見を集約、5月21日に陸軍次官の決裁を受けている。指田社長が請願してから約1ヵ月半でほぼ稟議結了の準備ができるのだが、これが当時の稟議回覧における通常のスピードであって、前回ご紹介した陸軍鉄道第二連隊による井荻~高田馬場(実質は下落合)間の「演習」工事の稟議スピードが、いかに“異常”でケタ外れだったかがわかるだろう。
 すでに、下落合駅を起点(終点)とする軍需物資の輸送計画は、陸軍省と西武鉄道との間で打ち合わせが進捗していたのだろう。だから、今度は陸軍省が西武鉄道へ便宜をはかる番だったにちがいない。稟議は通常のスピードでまわされたものの、陸軍用地の地下にトンネルを掘って鉄道が走るにもかかわらず、さして大きな異議もなく地下の利用をすんなり了承している。1926年(大正15)5月21日に出された最終回答案、陸軍省送達(陸普第二〇六六号)から引用してみよう。
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 副官ヨリ願人ニ回答案(近衛師団経理部経由)(陸普)
 三月三十一日付西鉄第七九九号ヲ以テ出願ニ係ル首題ノ件 左記条件ノ下ニ承認セラレシニ付 承知セラレ度/追テ射撃場用地ノ一部ハ近ク大蔵省ニ引継予定ノモノニ付 土地引継後ニ於テ同省ニ交渉セラレ度
  左記
 一、工事実施ノ為及工事施行後ニ於テ地表面ニ障害ヲ及ホササルコト
 二、前項障害ノ有無ハ工事施行申請書ニヨリ当省ニ於テ別途スルコト
 願人/東京府豊多摩郡淀橋町大字角筈七八八番地
 西武鉄道株式会社/取締役社長 指田義雄
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 この直後、鉄道省が突然、陸軍省と西武鉄道との間に登場して、形式的な免許状を下ろすことになるのだが、鉄道省がその際、ゆくゆくは東京市営地下鉄と連結させることを「条件」として示している。これは西武鉄道にとっては、“渡りに舟”の条件だったろう。通常の地上線ばかりでなく、地下鉄の建設も行なえる総合的な鉄道会社へと成長する足がかりとなるからだ。また、地下鉄工事にはトンネル構造を支える、地上線とはくらべものにならないほどの大規模なコンクリート構造物(セメントや砂利など)が必要となることはいうまでもない。陸軍省ばかりでなく、鉄道省とも「あ・うん」の呼吸でやり取りが行なわれていたようだ。この間、西武鉄道側によるきわめて「濃厚」なネゴシエーションが、両省に対して行なわれていたのであろうことをうかがわせる内容となっている。以下、鉄道大臣・仙石貢が下した地下鉄「西武線」の免許状を見てみよう。
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 監第一〇〇号/免 許 状/西武鉄道株式会社
 右申請ニ係ル東京府豊多摩郡戸塚町大字戸塚ヨリ同府同郡同町大字下戸塚ニ至ル鉄道ヲ敷設シ旅客及貨物ノ運輸営業ヲ為スコトヲ免許ス 但シ左記条件ヲ遵守スヘシ(中略)
 一、本免許線ハ東京市営地下鉄道ト連絡セシムヘシ
 二、東京市営地下鉄道トノ連絡及交叉設計ニ付 同市ノ承認ヲ得タル上 大正十六年五月十五日迄ニ地方鉄道法第十三条ニ依ル認可申請ヲ為スヘシ
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 西武鉄道の計画では、山手線・高田馬場駅の東西どちらかに設置された西武高田馬場駅より、南へ200mほど下がった山手線の内側(東側)地点、現在の「大久保スポーツプラザ入口」交差点のすぐ北側にある、日本美容専門学校本館あたりから地下へともぐり、現在の補助72号線(諏訪通り)と重なるように高田八幡(穴八幡)Click!方面へと抜けていくものだった。その間、陸軍より「適宜ノ地点ニ停留場ヲ設ケ近騎及射撃場他設備ノ利用ニ便ナラシムルコト」という要望もあり、地下駅を2~3駅ほど設置することが検討されている。ひとつめの候補駅は大久保射撃場前Click!、ふたつめは近衛騎兵連隊前Click!あたりではなかったか。でも、駅同士がそれぞれあまりに近接しすぎているため、継続審議の課題として残されたのではないかと思われる。

 
 こうして、地下鉄「西武線」の地下工事は着々と進むかに見えたのだが、ある時期を境に計画はすべて見直しとなってしまう。その後、西武鉄道は高田馬場駅を起点(終点)とする時代が長くつづき、戦後になると早稲田方面への延長ではなく、ターミナルとしての成長がいちじるしい山手線・新宿駅への乗り入れを検討しはじめ、1948年(昭和23)に改めて延長工事の免許を取得している。
 しかし、トンネルはすでに掘り進められてしまったものか、80余年後の時を隔てた今日、補助72号線にからみ妙な工事が行なわれているのだけれど、それはまた、別の物語・・・。

◆写真上:現在は戸山公園となっている、戸山ヶ原の陸軍大久保射撃場跡。
◆写真中上:西武鉄道社長・指田義雄から、陸軍大臣・宇垣一成あてに出された「請願書」。
◆写真中下:上は、陸軍省が稟議(審案)にかけた「鉄道敷設ニ要スル陸軍用地々下使用ノ件」。下左は、陸軍省各課から出された意見書。下右は、鉄道省による同工事の免許状(写し)。
◆写真下:上は、西武鉄道の「請願書」に添付された、地下西武電車のルート参考図。西武高田馬場駅の位置が決まっていないため、山手線内側の西武線ルートが途中から記入されている。下左は、地下鉄「西武線」が走る予定だった地上の諏訪通り。現在、なぜか上記の地下鉄ルートと同じラインで地下道路工事が進行中なのだが、すでにトンネルは掘られていたものか? 下右は、「利用ニ便ナラシムルコト」との意見が出された現存する近衛騎兵連隊の旧・兵舎。