現在、高田馬場駅Crick!の南側を東西に走る諏訪通りで、補助72号線(補助74号線)※のトンネル工事が行われている。諏訪通りは、1979年(昭和54)から拡幅工事が実施されたのだが、西武新宿線と山手線をくぐるガード(アンダーパス)のところが従来のままの道幅となっていたため、ガード幅を明治通りへと抜ける諏訪通りと同じ幅に南側へ拡げよう・・・というのが、今回の工事の主旨だ。
※当初、本記事に登場する諏訪通り(東西道)の工事を補助72号線としていましたが、同線は山手線アンダーパスの東側交差点を南北に、新宿東口から高田馬場駅前を経て、新目白通りまで貫通予定の拡幅予定線のことで、諏訪通りの東西道工事は補助74号線計画であることが判明しました。したがって、以下の文中では74号線に訂正しています。
 でも、実際に工事現場をご覧になった方なら、すぐに「なんでだろ?」・・・と不可解に思われるだろう。それはガードの幅を、すでに拡げられた道路幅に合わせて拡張し、東西の出入口を坂道でつなげればいいだけの工事のはずだった。ガードは、西武線/山手線の線路へもぐりこむように設置されているので、必然的に両側の道路は下り坂(上り坂)で接続されている。これは、ガードができた当初から現在まで、まったく変わらない仕様だった。ところが、今回の工事ではなぜか諏訪通りの地下にトンネルを掘り、ガード手前へと抜ける地下道路を建設しているのだ。
 この道路工事が、いかに不思議な工事なのか、以下に図をつかって説明してみよう。ふつうに考えるなら(建設リードタイム+コスト+効率性を考慮すれば)、西武線/山手線のガード幅を南側へ拡げ、同時に諏訪通りからつづく拡幅済みの道を、“下り坂”にするだけで済む工事のはずだ。(図A・B)  諏訪通りへトンネルを掘る必然性など、どこにも存在しない。また、地上の敷地が買収できないわけでもない。トンネルが掘られているのは、拡幅前の諏訪通りと拡幅後の道幅のちょうど中間あたりからだ。すなわち、拡幅前の敷地とは、戦前まで陸軍の大久保射撃場Crick!の敷地であり、長大な土手があった北側あたりの用地なのだ。
 トンネル工事は、諏訪通りに面した諏訪明神社Crick!のすぐ西側から、道路の中央に規制エリアが設けられ、徐々に道が下り坂になってトンネル開口部へとつづいている。地下にもぐった道路は、西武線/山手線ガードのすぐ手前で再び口を開けているので、環5(明治通り)へと抜ける上り線として運用されるのであろう開通後は、小滝橋方面からやってきたクルマはガードをくぐるとすぐにトンネルへと入り、諏訪社の少し西側で開口部を出て地上への坂道を上ることになる。地上の交差点として、十分な広さも余裕もある「大久保スポーツプラザ入口」の十字路を、なぜふつうの交差点にせず、しかも片車線だけトンネルを掘る必要があるのかが、わたしには理解できないのだ。

 このトンネル工事は、実はあらかじめ掘られていた陸軍敷地内のトンネルの再活用ではないのか?・・・と疑いたくなるのは、昭和初期に地下鉄「西武線」Crick!が計画されていたトンネル位置と、今回のトンネル工事のルート位置とが、かなりの部分で重なってくるからだ。1979年(昭和54)まで、諏訪通りは現在の北側車線の幅とほぼ同じか、やや狭い通りだった。ましてや、戦前にはさらに狭い通りだったのが、空中写真からも確認できる。その南側は、射撃場や練兵場の敷地と土手がつづく陸軍用地であり、地下鉄「西武線」はその真下を通り、近衛騎兵連隊Crick!の敷地北辺を抜けていく計画、すなわち今日の補助74号線のルートとまったく同じコースをたどり、最終的には早稲田大学に設置予定だった地下駅へと向かうはずだった。
 西武鉄道は、陸軍省から地下鉄工事のストップがかかる前に、同省工兵課Crick!による全面協力のもと、近衛騎兵連隊のあたりまでトンネルを掘りはじめていたのではないか? ところが、陸軍用地の地下を民間の鉄道が走るのはマズイと、ある時点で陸軍省の上層部、あるいはどこかの部局がクレームをつけたのではなかろうか。それは、この工事を承認して利便性が向上するのを歓迎していた工兵課でも騎兵課でも、はたまた歩兵課、建築課、参謀本部(第三部)でもない、まったく別の筋から「その工事、ちょっと待った!」・・・がかかったのではないかと思われる。その時点で、トンネル工事はすべて中止され、すでに掘削が進んだトンネル部はそのまま放置され密閉された・・・。または、ある程度トンネル工事を進捗させてからあえてストップをかけ、できあがった部分を地下鉄とは別の用途でのちに使用していた・・・とも考えられる。
 戸山ヶ原でトンネルの存在が公にされ、戦後に封印・埋められた地下ルートには、軍医学校と東京第一衛戍病院Crick!とを結ぶトンネルがある。このトンネル跡は、つい最近まで残っていたが、国立国際医療センターのリニューアルとともになくなってしまったようだ。※ また、軍医学校敷地の南に接した済生会病院にも、北側の軍医学校へとつづくトンネルの証言が伝えられている。戸山ヶ原は、戦後すぐから住宅不足を解消するための宅地造成Crick!や、公共施設、学校、公園などが次々と建設され、実はその地下がどうなっているのか、詳しい解明が今日にいたるまでなされていない。換言すれば、戦前の状態が案外そのまま残っている可能性が高い地域ともいえそうだ。以前、このサイトでもご紹介した将校会議室Crick!も半地下施設だったことを考えれば、陸軍が地下を利用しようと考え、さまざまな施設やルートを建造したと想定することは、あながちピンと外れではないだろう。
※この記事を書いてから、2011年1月30日に改めて軍医学校-第一衛戍病院のトンネル跡を確認に出かけたところ、その痕跡がいまだハッキリと残っていることがわかった。陸軍第一衛戍病院(現・国立国際医療センター)の東側石垣には、地下トンネルへと通じていた入口跡が確認できる。



 戦後になると、陸軍とその施設はすべて消滅し(もっとも空襲によりレンガやコンクリートの建築物を除き、大半は壊滅していたけれど)、西武鉄道は戸山ヶ原を経由して早稲田地域へ乗り入れるよりも、ターミナルとしての発展がいちじるしい山手線・新宿駅へと乗り入れたほうが有利だと判断して、1948年(昭和23)に改めて新宿駅まで鉄道を延長する工事免許を申請、取得し直している。したがって、トンネルはそのまま使用されずに地下で眠ったままとなり、いつか別の用途で使われる日がくるのを待っていた・・・という経緯ではないだろうか?
 戸山ヶ原を探りはじめると、不可解なテーマや課題があとからあとから、際限なく浮かび上がってくる。地下を走るトンネルルートや、建造されたかもしれない地下施設によって、戸山ヶ原は地上の施設のみならず、地下も陸軍の「要塞」化が企図されていたのではないかと思えてくるのだ。それらの戦争遺跡は、戦後も十分な調査がなされないまま、現在も地面の下で眠りつづけているのではないか。それが突然、なんらかの工事によって昔日の姿が表面化することがある。補助74号線の不可解なトンネル工事も、そのひとつではないだろうか?
 敗戦間際の1945年(昭和20)夏、戸山ヶ原の3ヶ所へ大きな穴を掘って、陸軍軍医学校にあった大量の人体標本を分散して埋めたという、同学校へ勤務していた元・看護婦(師)による証言(2006年)も記憶に新しいところだ。その穴が発掘できないよう、戦後すぐに国立東京第一病院(現・国立国際医療センター)の「看護婦寮」が、穴の上へかぶさるように建設されたという証言も伝承されている。事実、1989年(昭和64)にはそのうちのひとつ、国立感染症研究所の工事現場から、日本人ではない人体標本と思われる不自然な加工跡の残る人骨が、100体以上まとめて発掘されている。
 
 
 元・看護婦の証言にもとづき、当時の政府自民党(安倍政権)は国会で、厚生労働省による残り2ヶ所の発掘調査を約束した。そのうちのひとつである、国立国際医療センター戸山5号宿舎が解体され、同省による調査がようやく行なわれようとしている。このエリアは、戦後すぐに穴の上へ「看護婦寮」を建設して“封印”した地点であり、軍医学校の関東軍防疫給水部(通称731部隊)の研究拠点があったとされる場所でもあるのだが、その詳しい状況については、また、別の物語。

◆写真上:諏訪社の西側に口を開けた、西武線/山手線ガードへとつづくトンネル開口部。
◆図版:もっとも低コストで効率的な工事を前提とした、同ガード(アンダーパス)の道路想定図。
◆写真中:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる拡幅前の諏訪通りと地下鉄「西武線」の計画ルート。中は、1926年(大正15)に陸軍大臣・宇垣一成あてに提出された西武鉄道の地下鉄計画ルート図。下は、現在の諏訪通りにおける補助74号線トンネル工事の様子。
◆写真下:上左は、補助74号線工事によって拡幅される予定の西武線/山手線ガード(アンダーパス)。左側の道がすでに拡幅された部分で、右側が諏訪社西側の開口部からつづくトンネルの工事現場。上右は、地下鉄「西武線」のトンネル開口部建設が想定されていた日本美容専門学校本部あたり。下左は、諏訪社前あたりまでつづくトンネルから地上への上り坂。下右は、いまも補助74号線沿いにつづく陸軍近衛騎兵連隊(現・学習院女子大学など)のレンガ塀。