西武鉄道による戸山ヶ原への地下鉄「西武線」Click!建設にからみ、東京の巨大な商業都市・新宿とは異なる、明治期からの「軍都・新宿」Click!としてのもうひとつ別の顔、広大な陸軍用地へあとちょっと深入りしてみたい。戸山ヶ原のことを本格的に調べはじめると、おそらく目白・落合地域をテーマとするこのサイト以上のボリュームのWebができてしまうだろう。それほど、縄文期から現代にいたるまで、さまざまなテーマが眠っている地域だ。
 江戸期には、広大な尾張徳川家の下屋敷であり、その発掘記録やエピソードClick!、伝承Click!などの紹介だけで、「目白文化村」サイトClick!のサイズを軽く超えるだろう。戸山ヶ原に展開していたと思われる古墳群の探究だけでも、膨大な記事が書けてしまいそうだ。空襲で丸焼けになった箱根山を、戦後すぐの空中写真で観察すると、双子の円墳上に徳川家が池を掘った土砂を載せて築山にしたような形跡が見てとれることは、以前に「百八塚」の伝承記事Click!でも取り上げた。
 さて、きょうはそんな昔の話ではなく、わずか60数年前の出来事だ。明治以降、徳川下屋敷跡の広大な戸山ヶ原は陸軍用地として接収され、そこにはさまざまな施設が建設されている。特に昭和に入ってからは、大規模なコンクリート建築Click!が数多く建てられ、新宿のもうひとつの顔=「軍都」としての大きな機能を備えることになった。戸山ヶ原の東端にあった、陸軍軍医学校もそのひとつだ。軍医学校は、早稲田(第一)高等学院(現・早稲田大学文学部などの戸山キャンパス)の南に接して、1935年以降は南東から南西へと広く展開していた。東側は、陸軍第一衛戍病院(現・国立国際医療センターClick!)の東側にいたる敷地、西側は近衛騎兵連隊(現・学習院女子大学など)の裏から箱根山Click!まで及んでいたと思われる。
 いまから20年以上前の1989年(昭和64)に、軍医学校の本部跡地である国立感染症研究所(旧・厚生省戸山研究庁舎)が建設される際、人体標本と思われる加工跡や実験跡が残る人骨が、工事現場からのべ100体以上も出土した。人骨のほとんどが日本人のものではなく、鑑定の結果、アジア系の別民族の人骨(中国人など)だったことから注目を集めることとなった。
 人骨の由来を究明する過程で、軍医学校へ勤務していた元・看護婦(師)たちの証言から、1945年(昭和20)の敗戦前後に、陸軍にとっては都合が悪い戦争に関する物品や資料など「証拠」類の隠滅作業の一環として、軍医学校に保管されていた膨大な人体標本を、戸山ヶ原の軍医学校敷地内へ3ヶ所に分けて埋めていたことが明らかになった。2007年当時の政府自民党(安倍政権)は、元・看護婦の証言者と厚生労働省で面会し、埋設場所の発掘調査を約束している。でも、残る2ヶ所の埋設場所には公務員宿舎が建っていて、すぐに調査という運びにはならなかった。ところが昨年(2010年)、そのうちの1ヶ所である軍医学校の防疫研究室近くに建っていた、国立国際医療センターの戸山5号宿舎が駐車場とともに解体され、いつでも発掘調査ができる状況となった。学習院女子大キャンパスや戸山公園のちょうど真裏、国立国際医療センターの北北西側に当たる地点だ。


 1936年(昭和11)および1947年(昭和22)に撮影された、空中写真(上掲)をベースに見ていこう。まず、写真で①としている地点が、1989年(昭和64)に100数十体分とみられる大量の人体標本らしい人骨が発見されたポイントだ。①は軍医学校の中枢エリアで、現在は国立感染症研究所が建っており、北側は早稲田大学文学部などと敷地が接している。場所としては、軍医学校の標本図書室の前に相当し、この建物内にあった標本類が埋設されていたと思われる。
 ②が、元・国立東京第一病院(現・国立国際医療センター)の職員寮・戸山5号宿舎が解体され、近々厚生労働省が発掘調査を行なおうとしている埋設ポイント。つづいて③が、いまのところ財務省官舎である高層の若松住宅が建っていて、当分は発掘できそうもない埋設ポイントだ。戦後すぐのころ、これら標本の埋設場所には、すぐに木造の公務員宿舎や看護婦寮が建設され、発掘ができないようにしたとの元・看護婦らの証言もある。また、掘り返されないように周辺には常時「監視要員」を常駐させていたという、旧・軍医学校関係者の証言も伝わっている。当時はGHQなどに発掘調査されてはたいへんマズイものが、まとめて埋められている可能性が非常に濃厚なのだ。
 
 
 自民党政権下で約束された発掘調査が、4年後に民主党政権の手で行なわれようとしているのは、当然といえば当然なのだろう。当時、標本とみられる人骨について、衆議院で究明を訴えていたのは民主党だからだ。特に②の埋設ポイントは、広い軍医学校施設の中でも、防疫研究室(旧・細菌研究室)ビルが建っていた場所に近く、この研究施設は関東軍防疫給水部(通称731部隊)の東京拠点だったことが知られている。敗戦から66年を経て、旧軍関係者とみられる「監視要員」もいなくなったいま、「731部隊」の東京拠点に調査のメスが入ることになる。
 余談だけれど、軍医学校の北側に建っていた早稲田高等学院(現・早大文学部など)は、空襲により校舎のほとんどが全焼した。戦後は、その南側に接した軍医学校の焼け残ったコンクリート校舎を借りて、講義や試験などを行なっていた。早稲田高等学院の本部校舎として使われたのは、軍医学校の中枢エリアに建っていた「化学兵器研究室/軍陣衛生学教室」の校舎だ。実は、この建物の屋上写真を、すでにこのサイトでは「カツ丼」にからめてご紹介Click!している。
 おそらく、内部は爆撃(同ビルの裏には250キロ爆弾による至近弾のクレーターが確認できる)で焼けていたのだろうが、戦後に内装を修繕し学校としての設備や調度をそろえて使用しているのだろう。青山キャンパスを焼失した女子学習院Click!が、戦後に早稲田高等学院の西にあった近衛騎兵連隊Click!のレンガ兵舎を借りて授業再開をしているのと同じケースだ。親父は、本部校舎(軍陣衛生学教室)の南に建っているビルが「標本図書室」であり、その前庭に多くの人体標本が埋められていることなど知るよしもなく、戦後は毎日、軍医学校の中枢敷地を歩いて登校していたのだろう。軍医学校の敷地内における、具体的な施設の配置が明らかになってきたのも、つい最近のことなのだ。戦後すぐのころ、早稲田高等学院(の仮校舎)へ通われていた方々に取材すれば、軍医学校の焼け残ったコンクリート施設内部の様子がわかる可能性が高い。もっとも、それが具体的になんの施設だったのかは、「軍医学校」というおおざっぱな名称以外に院生はまったく知らなかっただろうが・・・。


 
 休日になると、のどかな陽射しをあびて家族連れが訪れる戸山公園なのだが、地表の薄皮を1枚めくると、その下には陸軍の膨大な施設跡とともに、昔日の「軍都・新宿」の姿が浮かび上がる。わたしとしては、厚生労働省によるポイント②の発掘調査には新宿区も便乗し、その下にある地層も調査してくれるとうれしいのだが・・・。戸山ヶ原のあちこちで、縄文期から古墳期の遺跡が見つかっており、当然、②にもなんらかの埋蔵文化財が包蔵されている可能性が高い。縄文から江戸、そして明治から戦前にいたるまで、戸山ヶ原は歴史物語の宝庫なのだ。
 さて、このまま戸山ヶ原に深入りしつづけると、わたしは次々と惹きつけられ調べたくなるテーマやエピソードの山から足抜けできなくなる怖れがあるので、同地域のテーマは地元在住の方々におまかせすることにして、わたしはそろそろ目白・落合地域へと引き上げよう。

◆写真上:のどかな戸山公園の風情なのだが、地下にはキナ臭い戦争の遺跡が眠っている。
◆写真中上:1936年(昭和11)の空中写真(上)と、1947年(昭和22)の写真(下)にみる軍医学校。1936年の写真ではまだまだ建物の数が少なく、このあと学校敷地内には施設が林立していく。
◆写真中下:上左は、防疫研究室ビルの跡。上右は、発掘調査が近い戸山5号宿舎跡(ポイント②)。下左は、国立感染症研究所(ポイント①)。下右は、財務省の若松住宅(ポイント③)。
◆写真下:上は、1932年(昭和7)12月1日に作成された決裁書「陸軍軍医学校防疫研究室新築工事ノ件」。ビルを新築する際に、従来の「細菌研究室」から「防疫研究室」へ名称変更することが決裁されている。中は、同工事費21万3,000円(一部)を「満州事件」(日中戦争)の支出として計上してしまえとする、1933年(昭和8)9月18日に作成されたマル秘の審案「陸軍軍医学校防疫研究施設ニ関スル件」。会計監査が入れば明らかな使途不明金で違法行為だが、「軍事機密」で押し通せるので陸軍省は意に介さなかっただろう。いずれも、国立公文書館に保存された陸軍資料より。下左は、1947年(昭和22)に早稲田高等学院仮本部校舎(元・軍陣衛生学教室ビル)の屋上で撮影された卒業試験直後の記念写真。下右は、同年の空中写真にみる撮影ポイントと周辺の様子。